「失恋だけが原因ではない」中森明菜、絶頂期の不穏と完全復活までのカウントダウン
群雄割拠のアイドル戦国時代
しかし歌手デビューの夢は叶えたものの、明菜がデビューした1982年は後に“花の82年組”と称される新人アイドルの当たり年。3月に小泉今日子が『私の16才』、堀ちえみが『潮風の少女』でデビューを飾れば、4月には石川秀美が『妖精時代』、早見優が『急いで!初恋』でデビューを飾る。 ほかにもシブがき隊、三田寛子、新井薫子、原田知世、北原佐和子、つちやかおりが続く。まさに時代は、群雄割拠のアイドル戦国時代。ところが明菜が所属する外資系の「ワーナー・パイオニア」は洋楽がメインで当時はまだ、邦楽の実績に乏しかった。 しかしこれがかえって功を奏した、と後に明菜の宣伝を担当することになる元ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の田中良明(71)氏は語る。 「もともとロックに特化したプロモーター会社『ウドー音楽事務所』にいて、レッド・ツェッペリンやエリック・クラプトンなど海外のビッグアーティストを招聘してきたスゴ腕の寺林晁さん(享年77)をワーナー・パイオニアがヘッドハンティング。明菜の宣伝統括に就任すると、彼女のプロモーションのために洋楽の予算もふんだんに注ぎ込むビッグプロジェクトを立ち上げました」(田中氏) これが後に“育ての親”と呼ばれる寺林氏と明菜の運命の出会いとなる。
「ツッパリ三部作なんて、大嫌い」
群雄割拠のアイドル戦国時代を制するためには、どうしたらいいのか。明菜サイドの戦略は明確だった。 シンガー・ソングライターを積極的に起用して、コンセプトを持った作品で他のアイドルと差別化を図りたい。 そんな狙いからデビュー曲『スローモーション』に続いてセカンドシングルも来生えつこ(作詞)、来生たかお(作曲)の姉弟コンビによる『あなたのポートレート』に決まっていた。 しかし『スローモーション』の売り上げがさほど伸びなかったことから、セカンドシングルもバラード曲でいいのか。迷いが生じていた。しかし、 「次のシングルは曲のイメージを変えたほうがいい」 寺林氏の鶴の一声から、急浮上してきたのが売野雅勇(作詞)、芹澤廣明(作曲)のコンビが手がける『少女A』だった。 ところが、そのデモテープを聴くなり明菜の表情はみるみる曇り、 「イヤだ! 絶対に歌いたくない」と言って泣きじゃくった。 明菜は、主人公の不良少女は自分のことではないか。自分のことを調べて歌にしたに違いないと思い込み、頑なに歌うことを拒んだ。 最終的には担当ディレクターの島田雄三氏(76)が、「もし、これが売れなかったら、俺が責任を取る」と啖呵を切ってレコーディングにこぎつけた。いわくつきの『少女A』はまさに難産の末にこの世の中に送り出されたのである。 ところがこの寺林氏をはじめ、スタッフの狙いはピタリと当たる。挑発的な歌い方やにらみつけるようなレコードジャケットが反響を呼び、『少女A』はみるみるうちにヒットチャートを駆け上がっていった。 高視聴率番組『ザ・ベストテン』(TBS系)や『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)にも出演。明菜は一躍、時の人となった。 快進撃はさらに続く。 サードシングルには、再び来生姉弟のコンビを起用。『セカンド・ラブ』をリリースすると『ザ・ベストテン』では8週連続1位の快挙を成し遂げる。 結果、『スローモーション』『セカンド・ラブ』『トワイライト―夕暮れ便り―』のバラード三部作と、『少女A』『1/2の神話』『禁区』のツッパリ三部作を交互にリリースすることで、思春期の少女が持っている二面性を見事に表現することに成功。 '80年にデビューした松田聖子と肩を並べるスーパーアイドルへと成長していった。 しかし明菜自身は“ツッパリ三部作”のことが好きではなかった。 「『1/2の神話』の歌詞『いいかげんにして』が山口百恵さんの『プレイバックPart2』に出てくる『馬鹿にしないでよ』のフレーズと似通っているのは周知の事実。当時から自分にしかできないものを追い求めていた明菜にとって、“ポスト山口百恵”のレッテルを貼られるのは我慢がならなかったようです」(田中氏) 明菜、このとき17歳。─アイドルの殻を破りたい。 そんな思いが心に芽生え始めていたのかもしれない。