「親密」な握手、ゴルフ、食事、会談……日米同盟の文化的な構図
強靭か脆弱か
このような対照性と共通性を有する二つの文化の同盟、たとえばアメリカの「力」と日本の「技」、アメリカの「開拓者魂」と日本の「武士道」、アメリカの「草の根から宇宙開発までのたくましさの文化」と日本の「もののあはれと無常観のはかなさの文化」の合体は、軍事的、経済的にばかりでなく、文化的にも強靭なものとなるはずだ。これが磐石であれば、世界最強の同盟といえるかもしれない。 しかし同盟とはいえ、これは戦後の占領国と被占領国という圧倒的格差関係によって、つまりアメリカの意思によって成立したということを考えなくてはならない。そのアメリカの意思が変わる場合、あるいはその一方的な意思を日本が負担と感じる場合、同盟は一挙に脆弱化する。 そして両国をめぐる環境は、激しく変化している。その深層文化の母体としてのヨーロッパ(EU)は沈みつつあり、中国は昇りつつある。今後しばらく、日米同盟は、軍事的にだけでなく文化的にも、中国の動向によってその性格を変えざるをえないだろう。 世界最強の軍事力を誇り、各地で戦闘の当事者となっている国と、改正が取りざたされているとはいえ、世界に稀な平和憲法を有する国との同盟であれば、大きな矛盾を内包せざるをえない軍事的側面よりも、文化的側面においてこそ協調すべきではないか、というのが筆者の考えである。太平洋戦争後の平和的関係は、まさにその互いの文化を尊重することによって、維持されてきたのだ。 サミュエル・ハンチントンは、『文明の衝突』において、アメリカを西欧文明の一部とし、日本を独立した文明として扱っている。そこには、自分が西欧という普遍的な文明に属する知識人であるという意識、また日本を中国から切り離すという意図がはたらいているのだろうが、本論では、文明の衝突より、文化の総合的な力学を考えたい。 文化と文化は、真っ向から衝突するというより、接触、複合、葛藤、統合、矛盾、融合を続けながら、渾沌の歴史を流れつづけるものだ。 そういった文化的構図を考えた場合、われわれはこの日米同盟を大切にしながらも、それを絶対視したり、あるいはそれに依存したりするのではなく、常に状況の変化に対応する柔軟かつ強靭な精神をもって、それをメンテナンスしていかなくてはならないだろう。 「文化」とは、俗世間から切り離された美しいばかりのものではない。政治、経済、そして軍事とも、絡み合った現象なのだ。