三つの大津波を生き抜いて…102歳の歌人が「一番伝えたいこと」 ふるさとは失われても
夜空を焦がす山火事の炎 2011年東日本大震災
そして、2011年3月11日。 東北沿岸部を襲った東日本大震災は、それまでに2度の大津波を経験していた中村さんにとっても、想像を絶する大きさだった。 午後2時46分、岩手県山田町にある自宅近くの郵便局で貯金をおろし、短歌結社に歌稿を送って帰宅したところ、激しい揺れに見舞われた。 津波が来るぞ、と直感し、日ごろから手元に置いているリュックにお金と通帳、補聴器の電池、ラジオを詰め込んで、同居していた孫の車で自宅近くの高台に向かった。 高台には古い家が2軒あり、長く空き家にしていたが、いざという時に備えて壊さずに電気も引いたままにしていた。 町中にサイレンが鳴り響き、「大津波が来るぞ」「逃げろ」と叫ぶ声がして、住民が高台からさらに高い山の方へと逃げ始めた。 足の不自由な中村さんは杖をつきながら、転ばぬように畑の道を一歩一歩登った。 途中からは知人がおぶってくれた。 その後、寒さをしのぐため、山道に止まっていた幼稚園のバスに乗せてもらった。 満員の車内には全身ずぶぬれの人もいた。 バスの中で震えていると、山の木々の間から赤い炎が見えた。 どこかで山火災が発生しているらしかった。 夜になると、バスを出て高台の家に戻った。 強い余震が来るたびに、家が潰れるのではないかと不安になって、外に飛び出した。 山火事の炎が夜空を焦がし、時折、「ドーン」という、プロパンガスのボンベが爆発したような音が響いた。 古家で2晩を過ごしたあと、ヘリコプターで避難するため、軽トラックの荷台に乗った。 山火事の炎はまだ燃えており、近くを通ると熱気を感じた。直後に歌を詠んだ。 〈わが思考持たざるままに導かれヘリに乗らんと運ばれてゆく〉 ヘリコプターに乗って避難所になっている山田高校に到着すると、宮古市の学校に勤務する孫娘が駆け寄ってきて、互いの無事を喜んだ。 避難所は満員だった。食事は朝夕の2回。誰かが差し入れを持ってくると、みんなで分け合って食べた。 自宅が流されたのに、活動を続ける保健師さんがいた。 母親を亡くした女児がよちよちと歩いているのを見て、胸を痛めながら書いた。 〈避難所に母失ひし女児のをりよちよち歩きを見つつかなしむ〉 震災5日目。釜石市に住む別の孫夫婦が会いに来てくれた。 車で釜石市に向かう途中、生まれ故郷の大槌町を抜けた。 記憶にある建物がすべて津波で流されていた。 町役場では、定年まであと半月に迫っていたおいが、行方不明になっていた。 初めてわが家を見たとき、車の中から声を上げて泣いた。 1階の壁には大きな穴が開き、向こう側のがれきが見える。 2階の割れたガラス窓に破れたカーテンが揺れていた。 〈生前に分たんとせしわが着物巨大津波に一枚もなし〉 流されずに残った服を拾い上げて水を絞ると、手が痛いほど冷たかった。