三つの大津波を生き抜いて…102歳の歌人が「一番伝えたいこと」 ふるさとは失われても
恐ろしかった海の波音 1933年昭和三陸津波
最初に経験した津波は、1933年に起きた昭和三陸津波だった。 3月3日未明、強い揺れに続いて大津波が押し寄せ、三陸海岸一帯で約3千人の犠牲者が出た。 当時13歳。大槌町で水産加工業を営む両親と兄、3人の姉妹と暮らしていた。 大地震の直後、両親と兄は家に残り、姉妹4人は高台に向かった。体が大きかった中村さんは、6歳の妹を背負って逃げた。 恐怖と寒さに震えながらたき火にあたっていると、町は津波に襲われたらしく、ちょうちんの明かりが水面に揺れ、人の名前を呼ぶ声が聞こえた。 夜が明けて戻ると、家は道の真ん中まで流されており、押し入れは上段まで水につかっていた。 生きていた飼い犬が、泥だらけになって飛びついてきた。 その40年近く前に明治三陸津波を経験した大槌町では、「大地震が起きたら、津波が来るから必ず高台に逃げろ」と教えられていた。 中村さんは母親から「就寝時には布団の近くに着物をたたんでおき、逃げるときは長靴を履きなさい」「家が火事にならぬよう、囲炉裏の炭火には鉢をかぶせるように」と厳しくしつけられていた。 「だから、私はしっかりと逃げることができたのよ」 4月、地元の女学校に入学すると、鎮魂と復興を願って詠まれた短歌を習った。 〈大津浪くくりて めげぬ雄心持て いざ追い進み 参い上らまし〉 余震が毎日のように続いた。津波で壊滅した街から響いてくる海の波音が、恐ろしかった。
顔を出した黒い海底 1960年チリ地震津波
次に襲われたのは、1960年のチリ地震津波だった。 5月23日、チリ南部でマグニチュード9.5の超巨大地震が発生。 津波は太平洋を横断し、翌日に日本各地の海岸を襲った。 三陸沿岸を中心に死者・行方不明者は140人以上。大船渡市では最も多い53人が亡くなった。 当時、中村さんは網元の夫と結婚し、山田町の船越半島に住んでいた。 津波の当日はちょうどワカメ漁の解禁日で、浜では多くの人が出漁の準備をしていた。 地震の揺れは感じなかったが、「海が変だぞ」という声を聞き、中村さんも浜に向かった。 護岸には多くの人が集まり、沖を見つめていた。 次第に潮が引きはじめ、係留している船が傾くと、黒い海底が顔を出した。 潮が湾に浮かぶ弁天島あたりまで引いたとき、人々が「津波が来るぞ」と叫んで逃げ始めた。 中村さんも近所の主婦に声をかけながら駆け出すと、脇道から津波が迫ってきた。 高台に続く坂道を、息を切らして登る途中、津波が船や浜小屋をさらっていくのが見えた。 「低地にいたら、津波に追いつかれて、私も流されていたかもしれないわ」 自宅のあった田の浜では、津波がこの27年前に起きた昭和三陸津波の後に造成された高台の下で止まっていた。 見に行くと、護岸近くの倉庫が津波に押し破られ、漁具などを失ったが、自宅は床下浸水で済み、大きな被害はなかった。