伊那谷楽園紀行(7)伊那の勘太郎と井上井月
そのことを示すのが<伊那の勘太郎>の存在だろう。勘太郎とは、架空の侠客の名前である。 影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた 故郷の月に 偲ぶ今宵の ほととぎす 小畑実の歌った『勘太郎月夜唄』は、毎年夏に伊那市で行われる「伊那まつり」で、踊りの伴奏として、伊那谷の人々には当たり前のように知られている。 架空の人物とはいえ、侠客すなわち、やくざ者が地域で誰もが知る存在になったのは、いかなる経緯だろう。伊藤春奈『「勘太郎」とは誰なのか?』(信濃毎日新聞社、2014年)では、一冊を用いて、そのことを探っている。 勘太郎が姿を現したのは、戦時下の1943年。東宝が製作した映画『伊那の勘太郎』においてであった。この映画の中で、長谷川一夫演じる勘太郎は、伊那谷を舞台に勤王の志士である水戸の天狗党を助けて活躍する。侠客が憂国の徒として描かれた経緯は、検閲を逃れて股旅もの映画を製作する手段など様々だった。 ただ、明らかなのは、幕末に実際に水戸の天狗党が京都を目指して、伊那谷を通ったという歴史的事実と、架空のキャラクターである勘太郎のイメージが合致したことである。 戦時下に作られた、久しぶりの股旅もの映画として『伊那の勘太郎』は全国的に大ヒットした。その熱気は戦後になっても止むことなく、1952年には再び長谷川一夫主演による大映製作の『勘太郎月夜唄』が。1959年には東千代之助主演で東映の『伊那の勘太郎』が製作された。 とりわけ大映製作の『勘太郎月夜唄』は、今も伊那商工会議所がフィルムを保管している。というのも、この映画の企画は、今も現役の映画館・旭座の初代社長が大映の永田雅一に談判し製作にこぎつけたという経緯があった。まだ、敗戦からの復興へと模索の続いていた時代。伊那谷の各地でロケが行われた映画は大成功を収めた。 その余波によって、1958年に始まったのが、現在の「伊那まつり」の源流である「伊那の勘太郎祭り」であった。この祭りの契機になったのが、伊那市街を見下ろす古城跡の春日山公園に建てられた「伊那の勘太郎碑」である。今も建つ永田雅一の揮毫による碑は、あたかも勘太郎が実在人物であったかのようにも読み取ることができる。