なぜ多くの人は「お金や名声の奪い合い」をするのか…悲劇が生まれる「シンプルな理由」
果たしていくべき約束:奪い合いから創り合いへの経営概念の再転換
しかし現代では、経営ときいて「価値創造を通じて対立を解消しながら人間の共同体を作り上げる知恵と実践」を思い浮かべる人は少数派になった。 人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。 その理由は、「あらゆるものは創造できる」という視点をもたないと、単なる手段であるはずのものが希少に思えてしまい、手段に振り回されるからである。 日本において本来の経営が急速に失われたのも、平成時代の円高とデフレによって、ただの手段のはずの金銭の価値が高まり、金銭という手段に振り回され、目的であるはずの人間の共同体をなおざりにしたからだ。 経営を忘れた社会が発展するはずもない。その結果、不況がさらに価値有限思考を強めるという負の連鎖から抜け出せなくなってしまっていた。 だが、令和時代は、円安とインフレという高度経済成長期型の経済に戻りつつある。「金銭よりも人材の不足が経営に危機をもたらす」という実感も広がっている。経営概念の再転換はまさに今日的課題だ。 経営の欠如によって、貧乏・勉強・健康……といった自分一人と自然物・人工物からなる共同体から(この意味で、人間が一人だけしかいない共同体もありうる)、家庭・恋人・友人といった小規模な人間集団の共同体、企業・学界・国家といった大規模な人間集団の共同体まで、不条理と不合理から抜け出せなくなる。 本書の比喩の数々を通じて、ようやくこの意味が共有されたのではないかと思う。 実は、「経営概念と世界の見方そのものを再・転換する」という本書の目的を達成するには、現在では経営だと見なされなくなったものに経営を見出していく「センスメーキング」を採用する必要があった。「言葉(概念)を言葉で変える」という矛盾に挑戦しているからである。だからこそ、本書は次々と比喩を紹介していくという構成をとっていた。 こうしたセンスメーキングの後であれば、本来の経営の代わりに現代社会の王座に君臨しているものの正体も明らかになるだろう。それは「経営ならざるもの」「有限な価値を巧妙に奪い取るための狡知をめぐらすこと」「価値有限思考」とでもいうべきものだ。こうした非・経営の狡知が金儲けや投資の知恵として喧伝されているのである。 立ち止まって考えてみれば、金銭、時間、歓心、名声など、人生における悲喜劇は「何かの奪い合い」から生まれることが分かる。そして奪い合いは限りある価値に対して発生する。価値がないものや限りなく創り出せるものは奪い合う必要がない。 このとき、限りあるものを奪い合う発想は短期利益志向と部分最適志向をもたらす。なぜならば「限りあるものはもたもたしているうちになくなるかもしれない」と思うからだ。加えて、「回り道なんかしているうちに、それを誰かに取られてしまうかもしれない」という不安に駆られてしまうからである。 何かを有限だと思う気持ちは常にそれを失う恐怖と隣り合わせだ。 金銭も、時間も、関係性も、勉強法も、問題解決も「人生において価値あるものはすべて誰かがすでに作ったもので、有限にしか存在しない」という既成概念に取り付かれると、限りあるものを守るための短期的で局所的な思考/志向に支配されるのである。 こうして「自分にとって本当の目的、究極の目的は何か」を問いなおす余裕がなくなる。「長い目でみれば遠回りする方が良いかもしれない」という考え方ができなくなり、最善手を探索することも、本質を追究することもできなくなる。 価値あるものはすべて有限だと思い込むからこそ、究極の目的を忘れて目の前の手段を守ることに必死になってしまう。その結果、幸せになる(=価値を創り出す)という究極の目的を忘れ、ただの手段に振り回される。 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
岩尾 俊兵(慶應義塾大学商学部准教授)