阪神淡路大震災20年 ── 神戸に寄り添ってきた歌「満月の夕」、その思いは福島へと
「満月の夕」が願うのは被災地の今日の幸せ、未来への希望
2011年、東日本大震災が起きた。その直後から、福島県相馬市を応援するプロジェクト「MY LIFE IS MY MESSAGE」を立ち上げ、全国を周りライブやイベントを行い、音楽を通じて被災地に寄り添っている。そのたび「満月の夕」も歌ってきた。 阪神淡路大震災20年を前にした昨年の暮れ、福島のために企画されたライブで、山口が最後の曲に選んだのは「満月の夕」だった。 風が吹く港の方から 焼け跡を包む様におどす風……山口から、有志の高野寛、田中和将、矢井田瞳、佐藤タイジ、ひとりまたひとり思いを込めながら歌い継いでいく。 それでも人はまた汗を流し 何度でも出会いと別れを繰り返し 過ぎた日々の痛みを胸に いつか見た夢を目指すだろう ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る ヤサホーヤ 焚き火を囲む 吐く息の白さが踊る 解き放て 生命で笑え 満月の夕 「1995年はオウムの事件もあったりして、いろいろ思い出すから、『満月の夕』は歌うのがヘビーだったんです。だけど、こうやってたくさんの人に支持されていて、ライブでも5人がそれぞれの表情で歌って最後は佐藤タイジが情熱で突破(笑)捉え方とか角度は違うし、1つの歌としては流暢に流れてないんだけど、通底している根っこにあるものは説明しなくてもわかっているという。よかったなって思いますよ。音楽っていいなって」。 「俺の歌だとかどうでもよくて、みんなが歌ってくれることが嬉しい」と山口は言う。綴った詞の根っこにあるもの、「満月の夕」が願うのは被災地の今日の幸せ、未来への希望だ。今を一生懸命生きてほしい、あきらめず再び夢を目指してほしいと祈りをこめて。歌はこの先も神戸に寄り添いながら、そしてその思いは福島や東日本へと。
改めて振り返る阪神淡路大震災
「MY LIFE IS MY MESSAGE」で相馬を支援する2人(「満月の夕」を作った山口洋さん、関西出身の矢井田瞳さん)に阪神淡路大震災当時のことを聞いた。 山口洋(HEATWAVE)「一番しんどいときこそ笑う、関西のたくましさに救われました」 ──1月17日で阪神淡路大震災から20年。当時のことで思い出されることは。 震災が起きたときは東京にいて、テレビで焼け野原を見て、今までそういう風景って教科書でしか見たことがなかったので、ほんとに言葉がなかったというか、途方にくれたというか。 そのとき一緒に住んでいたガールフレンドの実家が神戸(長田)で、同棲している男がお父さんとお母さんを救出に行く的な……。(現地に行ったら)メディアがそれまで切り取っていた、テレビから得た情報と自分がそこで得た情報が違っていて、自分の目で見なきゃだめだと確実にそう思いました。 ボランティアセンターのところのテントの建て方が甘かったので、マネージャーに、“今すぐ杭とロープを買ってこい”って言って。プロのミュージシャンになる前にテント屋にいたので。1日かけて全部直しました。そのテントは1年もったと感謝されました。田中康夫さんが原付のバイクで物資を配っているのを見て、そのやり方にぐっときて。自分ができることをやんなきゃいけないなって。 ──被災地の様子はいかがでしたか。 生きているときにこんな風景を見るとは思わなかった。話は東日本(大震災)のことになりますが、福島の相馬に行くのに山を越えるんですけど、捜索を終えて帰る警察や自衛隊の車両とすれ違うんです。その捜索してきた人たちの顔にやられちゃって。(ひどい風景を)見て、一生懸命人を捜して疲れきった顔に……。 そういう意味では、関西はたくましかった。関西は笑いがあるから、それがすごいなあと。関西のおばちゃんすげぇーって。救出に行ったお母さんもすげぇおもろい人で、この人たちからギャグをとったら死ぬなって。“泣き笑い”がうまい。俺もシリアスになりすぎる傾向があるから、どんなときにも、一番しんどいときこそ笑う。そんな感じでいなきゃだめだと。救われました。 ──「満月の夕」を歌い続けてこられて、今、どんな思いがありますか。 20年たって……曲ができた「定説」はこうだとか、僕が書いたとか中川が書いたとか、もうどうでもよくて。それぞれの表情があっていい。だって作者の一番の名誉は、“詠み人知らず”だけど歌だけ残っただから。みんなが歌ってくれることが俺は一番嬉しい。中学生(熊本県大津町立大津北中学校)が(福島にエールを届けるために)歌ってくれた、あれはやばいです。 自然災害はしようがないことだけど、臭いものに蓋をするのではなく、起きてしまったことに関してちゃんと原因を追究していかないと。阪神淡路大震災が起きた年にはオウムの事件もあって……誤解を恐れずに言うと、やったことは許されないけど、僕には音楽があったけど、彼らにはそれが麻原(彰晃)だったという違いだけかもしれないなと、オウムの本部から200mくらいの所に住みながら思っていた。彼らを排除すれば、トップの人間を死刑にすれば終わりということはない。なぜ彼らがああいうことになったのか考えて繰り返さないようにしなければと思います。 「満月の夕」はそんな1995年のいろんなことを思い出すから歌うのがヘビーだったんです。だけど、こうやってたくさんの人に支持されていて、ライブでも5人で歌って最後は佐藤タイジが情熱で突破(笑)よかったなって思いますよ。音楽っていいなって。