「わが子」と称した家庭裁判所を去る!? 朝ドラ『虎に翼』寅ちゃんモデルの思い
経験を積んだ後、家庭裁判所「育ての母」に
東京地方裁判所に判事補として着任した嘉子は、以前の記事でご紹介した通り「原爆裁判」という大きな事件を扱うことになる。東京地方裁判所の経験を経て初の女性判事となった嘉子(通常判事補として10年の経験が必要だが、嘉子は司法省や最高裁事務総局での勤務実績も合算された)は、その後名古屋に転勤し、再び東京に転勤したタイミングで再婚もしている。 地方裁判所の判事として経験も充分積んだ再婚後の昭和31年12月、約10年の時を経て嘉子は家庭裁判所に戻った。「この上は、誰にも負けない家庭裁判所のベテラン裁判官になろう」と決意した嘉子は、家庭裁判所の「育ての母」として、退官まで家庭裁判所に心血を注ぐことになる。 嘉子は少年の軽微な事案(万引きや自転車窃盗、ケンカなど)なども数多く担当し、犯罪を起こした背景にある、家庭や親子の問題を発見してその修復を促しながら導き、本人や家庭に働きかけて再犯を防ぐという取り組みを熱心に行った。罪を裁く法の執行者というより、家庭裁判所立ち上げ時の理念通り「真摯な教育者としての自覚」を持って少年の処遇に当たったのだ。 大人に対して不信感を抱き、なかなか心を開いてくれない少年たちを相手にするのは難しく、家庭裁判所の裁判官たちは悪戦苦闘の日々を送っていた。そんななかB5用紙1枚の簡単な送致書の記載から家庭の問題を敏感にかぎとって、少年少女の気持ちを短い時間で聞き出し、親にも本人にも寄り添う言葉で反省を促す嘉子の采配は、当時同僚だった裁判官も「まるでドラマを見ているようだった」と回想している。 「少年審判の場で、非行の事実を並べ立て、責めてお説教をしても少年は決してそれを受け入れようとはしません。それよりも『なぜあなたはこういうことをしたんだろう。どうしてこうなったのか自分で考えてみよう』と親切丁寧に、和やかに話をする間に、少年自身が自分のやったことを自分なりに考えていく。こちらから教えるのでなくて、自分自身が自覚をするチャンスがそこで生まれてくるのです。私は、少年審判は少年が自分自身で考え、反省する場だと思って審判をしてまいりました」 この嘉子の言葉は、現代の私たちの子育てにも大きなヒントになりそうだ。 昭和40年代に入っても貧困や親の育児放棄、虐待により犯罪を引き起こす少年も少なくなかった。逮捕されても保護者が面会にもこないような少年たちの多くは、家庭裁判所から補導委託先の施設に送ることになっても替えの下着さえ持っていない子もいた。それを見かねた調査官や裁判官が自費で下着や洗面道具を買ってあげることも珍しくなかったという。 そこで嘉子は後輩の野田愛子とともにボランティア団体『少年友の会』を立ち上げた。裁判官、調査官、調停員のほか外部からも会員を募り、資金集めにバザーを行ったり、少年のサポート的立場で少年審判に立ち会う「付添人」などを務めるほか、問題を起こした少年たちとともに公園の清掃活動なども行うようになった。さらには会員の大学生が少年に勉強を教える学習支援も始まった。この活動は、今もなお後輩裁判官らに引き継がれ、活動が地道に続けられている。ドラマで三山凌輝が演じる弟・直明の活動はこのエピソードに重なる。今後、どのようにドラマで描かれていくのかも注目したい。 少年審判では、少年の言葉に真摯に耳を傾け、話し始めるとぐっと身を乗り出して「うん、それで?」「もっと聞かせて」と語り掛け、子どもの気持ちを聞き出したという嘉子。その姿勢は、横浜家庭裁判所所長を退官する最後の日まで続いたという。若い職員たちから「うちの、お母さん」と呼ばれた嘉子は、名実ともに家庭裁判所を「生み」「育てた」家庭裁判所の母だったのだ。 こういった嘉子の姿がドラマによってどのように描かれていくのか。今までの寅子の奮闘も大きな柱だが、「家庭裁判所・育ての母」こそが彼女の人生後半の大きな軸になっていく。今後も見所が満載で見逃せない。 【参考文献】 ・『三淵嘉子と家庭裁判所』(清水聡編著/日本評論社) ・『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた‘’トラママ‘’』(佐賀千恵美著/内外出版社)
若尾 淳子(ライター)