ムツゴロウ「園山俊二さんを麻雀病にしたことが後から恐ろしくなり…初心者のうちはまだいい。いずれどうあがいても這い上がれない地獄がくる」
ナチュラリストであり、動物研究家でエッセイストだった、ムツゴロウこと畑正憲さん。2023年4月5日に亡くなられたムツゴロウさんですが、実は無類の麻雀好きで、日本プロ麻雀連盟最高顧問という肩書もお持ちでした。そのムツゴロウさんの一周忌にあわせて刊行される『ムツゴロウ麻雀物語』より、「動物との交流もギャンブルも命がけだった」ムツゴロウさんの日々を紹介いたします。 【書影】「動物との交流もギャンブルも命がけ」だったムツゴロウさんの自伝『ムツゴロウ麻雀物語』 * * * * * * * ◆私が公の場所で打つようになったワケ そもそも私は、麻雀で名が売れるなんて考えてもみなかった。仲間と打つよりも、巷(ちまた)の雀荘(ジャンそう)にまぎれこみ、どこか世をすねたところがある人たちと遊んでいるのが好きなだけだった。 公の場で打つようになったのは、漫画家の園山(そのやま)さんが仲介の労をとってくれたからであった。 園山俊二(しゅんじ)さんは、無類の動物好きであり、ロマンチストである。鳥島(とりしま)のアホウドリをいつの日にか見に行こうと言っているうちに友だちになってしまい、電話で長話をし、鉄砲で鳥を撃って愉しむ人たちには、素手(すで)でヒグマと付き合う勇気などなかろうと語り合っていた。 その園山さんが、私が北海道に移住した年、無人島まで遊びにきてくれたのであった。 花が咲きこぼれ、海が青い夏だった。私たちは馬に乗り、前の浜でカニをごっそり獲ってたらふく食べた。 夜、私たちは隣の番屋で泊まった。私の家は六畳一間であり、その半分をヒグマが占拠していたので、寝床をのべることが出来なかったのである。 番屋は、ニシン時代、昭和のはじめに建てられたものであった。柱は太くて立派だったが、板壁は朽(く)ちていて、古い新聞が貼り重ねられていた。 もちろん電灯はなく、すすでよごれたランプが一つ。 原始的なストーブに流木をくべ、炎がぱっと燃え上がる度に、お互いの顔が赤くなった。
◆話はあちこちにとび、やがてギャンブルへと集中していった 私は岬(みさき)で会ったマンボウの話をした。 園山さんは、外国旅行で巡り会った愛くるしい動物の話をした。 「何ちゅうか、日本人と考え方がまったく違うので、動物が人を恐れないんですよ。雀でさえ、平気で寄ってくるんですから」 話はあちこちにとび、やがてギャンブルへと集中していった。 窓には星の洪水があった。そして、家のすぐそばで、潮が岩の頭をなでる音がしていた。 流木は乾いていて、新しいものをつぎ足すとすぐに火の勢いが強くなった。 「ふうん、麻雀―そんなに面白いものですか」 園山さんは盛んに感心する。その聞き上手につられて私は雀荘綺談(きだん)と言ってもいいものを次から次へと披露した。 無人島から帰るとすぐに、園山さんは麻雀を始めてしまった。