《ブラジル》日記に綴ったサントス事件(下) 戦後のブラジルに生きた父の姿
サントス強制退去により、サンパウロ州パラグアスー・パウリスタに転住せざるを得なかった宮村一家だったが、同地で1944年の元旦に長男の秀光さんが生まれた後、1年も経たないうちにパラナ州へと拠点を移した。 当時、パラナ州は未開発の地も多かったようで、日本人集団地だったアサイ市に父親の季光(すえみつ)さんの従兄妹が嫁に行っていた河野家が近辺のトレス・バーラスに住んでいたことも大きかった。結局、宮村一家はマリンガとロンドリーナの間に位置するアプカラナに住み、長男の秀光さんは1945年から61年までを同地で過ごした。その間、49年に次男、51年に三男と2人の弟たちが生まれている。 父の季光さんはパラナ州でも歯科技工士の仕事を続けたが、戦後は「勝ち組」の支援活動をしていたこともあり、DOPS(秘密警察)に目を付けられていた。 当時、季光さんは「勝ち組(戦勝派)」が刊行していた雑誌『光輝(ひかり)』のパラナ州支部長として同誌の取り扱いをしており、自宅前に『光輝』の看板を掲げていた。そうしたところ、「負け組(認識派)」メンバーがその看板を写真に撮り密告したことで、ロンドリーナ市のDOPSに出頭することになり、数日間にわたって同市の刑務所に収監されたこともあったという。
一方、長男の秀光さんはアプカラナの高校を卒業後、一家で61年にクリチバ市へと引っ越したため、同市のパラナ連邦大学工学部に入学。67年に卒業した後、翌68年にはブラジルに進出してきた「ブラジル日本電気株式会社(NECド・ブラジル社)」に入社し、2001年までの33年にわたって営業及び技術者として働いた。 父の季光さんは1948年から、パラナ州セーラ・ドス・ドラードス(ウムアラマ市近郊)で植民地開拓事業に携わった経緯があるが、諸問題等により頓挫した。その後、72年から聖市に出て、熊本県人会長を務めるなど日系社会にも貢献したが、最終的には95年にクリチバ市で81歳の生涯を閉じている。 季光さんが綴っていた日記以外に、本人から直接「サントス強制退去事件」について聞いたこともあったという秀光さん。生前の父親について、「日本の小中学校時代から弁論の指導を受けたことがあったと言い、度胸があり、常に信念を持っていた。特に日本の天皇家が侮辱されることを絶対に許さないという信念が強かった」と振り返った。(おわり、松本浩治記者)