【災害支援を進化させる日本の警察】きっかけは阪神大震災の教訓、国民が取るべき行動とは
能登半島地震の被災地を記録的な大雨が襲い、河川の氾濫や土砂崩れが相次いだ。消防や警察、自衛隊が安否不明者の捜索や再び避難生活を強いられている被災者への対応をしている。 この対応に当たっている警察は、平成から令和にかけて確実に進化を遂げている。そのきっかけは1995年1月に起きた阪神・淡路大震災だった。令和の災害下にも生きる警察の活動について、2024年5月23日に掲載した『【知られざる日本警察の進化】きっかけは阪神大震災の教訓にあった 令和の今、国民が取るべき行動とは』を再掲する。 今も忘れられない光景がある。平成が「災害の時代」と呼ばれる原点となった「阪神・淡路大震災」(以下、阪神大震災)の発生から3日後、1995年1月20日のことだ。 阪神大震災で、家屋倒壊による被害が最も大きく、神戸市内で最多の1469人の死者を出した東灘区では、発災から、生存率が大幅に低下するといわれる72時間が過ぎてもまだ、多くの人たちが建物の下敷きになっていた。 その日の午前、同区本山中町でも、一家4人が生き埋めになったままだった。 現場では、応援に駆けつけた福岡県警管区機動隊の隊員たちが、懸命の救出活動を続けていた。 隊員220人は17日の発災後、被災地を中心に東西に広がった大渋滞を乗り越え、翌18日に神戸に入り、東灘区で救助活動を始めた。当時、重機を持っていなかった同隊の活動は、木造家屋に限られたが、出発前に、スコップやつるはしをかき集め、車両17台に積めるだけ積んできた。18日は1人、19日は3人の生存者を救出し、両日で51体の遺体を収容した。現場には、遺体を覆う布すらなく、隊員は自分たちの毛布を遺体にかけた。 掘り起こし作業が始まってから数時間後、家族を守ろうと、倒れてきた梁を支えるように息絶えていた父親が発見された。続いて母親。さらに、壁土の下から幼い兄弟が見つかった。6歳の弟が、9歳の兄の腕にしがみつくように息を引き取っていた。 4人の遺体を運び出した後、1人の若い隊員が、遺体に寄り添うように膝をつき、首に巻いていたタオルで、兄弟の顔についた泥を落とし始めた。「きつかった(つらかった)ね、きつかったね……」。そう声をかけつつ隊員は、子どもたちの顔を拭い続けていた。 彼らの救出活動に、一縷の望みを託していた私も、構えていたカメラを下ろさざるを得なかった。 震災発生当時、私は、地元紙『神戸新聞』の警察担当記者、いわゆる「サツ回り」で、神戸市内の所轄警察署を持ち場としていた。発災当日は、兵庫県警の災害対策本部が設置された中央区の県警本部生田庁舎に入り、全体の被害状況を取材。翌18日未明に、救助活動を取材するため、東灘区に転進した。 発災直後の17日午前6時過ぎ、まだ少人数の当直体制だった東灘署に、救助を求める住民が殺到した。 「子どもが閉じ込められている」「おばあちゃんが下敷きに」……。しばらくすると、署に近い独身寮や宿舎から応援の機動隊員らが駆けつけ、7時半には集まった約80人が3人1組で被害調査に向かった。しかし、途中で次々と住民たちに呼び止められ、そのまま救助活動に当たったため、管内の被害状況の把握は遅れざるを得なかった。