「虎に翼」松山ケンイチが“ラスボス説”の根拠。モデルになった史実の人物は「大掛かりな弾圧」も
桂場のモデルが起こした問題
桂場のモデルが石田氏であることは当初から法曹界では常識だった。寅子の父親・猪爪直言(岡部たかし)が被告になった「共亜事件」(第18回~25回)で桂場は東京地裁の右陪席(次席)裁判官を務め、判決文を書いたが、その原型の「帝人事件」(1934年)の判決はやはり右陪席の石田氏が書いた。どちらの判決文にも「あたかも水中に月影を掬いあげようとするかのごとし」という印象的な下りがある。 新憲法が施行された1947年、寅子は司法省(現・法務省)に採用を求めた。このときの人事課長は桂場だ。一方、寅子のモデルである三淵嘉子氏が同じ年に採用を願い出た相手も石田氏なのである。 桂場は人事課長を務めた後、最高裁人事局長や東京地裁所長などを務め、エリートコースを驀進する。1969年には最高裁長官になった。これも石田氏と全く一緒なのだ。 最高裁長官になった石田氏はリベラルな考えを持つ裁判官らのグループ「青年法律家協会(青法協)」を弾圧する。これが石田氏の起こした問題である。 弾圧の一例はこうだ。下級裁判所(最高裁以外の裁判所)の裁判官は任期が10年で、ほぼ例外なく再任されるが、青法協の裁判官は多くが再任を認められなかった。裁判官を辞めるしかなかった。 石田氏側は再任時期ではない裁判官たちにも脱会も働きかけた。このため、若手エリート裁判官の集まりである最高裁局付の判事補たちが集団で脱会した。青法協に所属する司法修習生も弾圧された。裁判官への任官を拒否した。 弾圧は大掛かりなもので、法曹界は大揺れになった。青法協が虐げられたからブルーパージと呼ばれた。1970年代前半のことだった。
ドラマ内での人柄にも“変化”が…
一方、桂場もこのところ不穏な動を見せている。第117回、団子屋と寿司屋が一緒になった「笹竹」で桂場の最高裁長官のお祝いが行われた。出席した多岐川が「困ったときにはオレたちが付いている。この国と国の司法を頼むぞ」と声を掛けると、一言も答えず、すこぶる不愉快そうだった。桂場は愛想の良くない男だが、これまでなら考えられない態度だ。一方、寅子のパートナー・星航一(岡田将生)の長男で裁判官の朋一(井上祐貴)は、桂場新体制の最高裁が出した判決に不満だった。日米安保条約に関する集会を開いた仙台の裁判所職員が、有罪になったからだ。118回だった。 「僕の開いている勉強会の連中もみんな怒っている」(朋一) 朋一たちはリベラルだ。桂場が弾圧するグループには朋一の勉強会も含まれているのか。裁判官も憲法19条によって思想・良心の自由が認められている。朋一が弾圧されたら、寅子は黙っていない。 石田氏はどうしてリベラルな裁判官を毛嫌いしたのだろう。まず本人が保守的だったからだ。退官後は保守団体の幹部を務めている。それより大きかった理由は政治家に人事や裁判への介入をさせたくなかったためである。 「石田さんは政治家が裁判に口出ししてくることをずっと嫌っていました。政治家が介入してくる余地をなくすため、リベラルな裁判官を排除した」(ベテラン法曹人)