「被災者でない自分たちが語っていいのか…」葛藤越え、震災伝承に踏み出した若者たち 津波で84人犠牲の大川小で始まった「語り継ぎ」
東日本大震災の津波で児童・教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小で今秋、遺族が務めてきた語り部活動の一部を地元の大学生グループが担う試みが始まった。遺族の思いを学び、自らの言葉で教訓を語り継ぐ。「被災者でない自分たちが語っていいのか…」。ほとんどが県外出身で、直接の体験がない学生たちには葛藤もあった。震災から12年半以上が過ぎ、各地で語り部の存続も課題となる中、若い世代が新たな一歩を踏み出した。(共同通信=下沢大祐) 【画像】福島第1原発事故後の福島に関する知識テストの一部 「風化が確実に進んでいる」
▽未来の命守る 「ここは子どもたちが運動会で走り回った場所です。そこにあの日、津波が来ました」。津波の爪痕が残り、震災遺構となった校舎の前で7月下旬、6年の次女みずほさん=当時(12)=を亡くした佐藤敏郎さん(60)が語り始めた。「震災後、全国の人から『あの大川小』と言われるようになったが、『あの』ではなかった日々を忘れたくないし、伝えていきたい」。傍らで東北大(仙台市)の学生4人が真剣な表情でうなずき、メモを取る。 佐藤さんは、6年の次女真衣さん=当時(12)=を失った鈴木典行さん(58)らと2015年に「大川伝承の会」をつくり、それぞれ本業の仕事をこなしつつ、大川小の語り部活動を続けてきた。大きな揺れの後、避難先が決まらず児童らが50分近く校庭にとどまったこと。津波がさかのぼってきた川沿いへ逃げてしまったこと―。来訪者に対し、現地で1時間以上かけて説明する。「未来の命を守るために」との願いからだ。
▽伝えきれない ただ、語り部の依頼は年々増えており、全てに対応するのが難しい場面も出てきた。鈴木さんは「平日の申し込みはお断りすることもある」と打ち明ける。校舎周辺には悲劇を検証する案内板が乏しく、ガイドがいない時間に訪れた来訪者に教訓を伝えきれない、との懸念もあった。最近は、震災後に生まれた子どもが大川小を訪れる姿も目立つ。「年が近い世代が話した方が受け止められやすいのでは」とも考えた。 佐藤さんは今年2月、以前からイベントの手伝いなどで交流があった東北大のボランティア団体「スクラム」に協力を依頼した。しかし、打診を受けた学生からは「生半可な気持ちではできない」と戸惑いの声も漏れた。メンバーの多くは県外出身で、震災当時は小学校低学年。震災前の大川小も知らず、街を飲み込む津波はテレビの向こう側の出来事だった。 ▽試行錯誤 それでも、さいたま市出身で東北大2年の上園真輝人さん(20)は「来訪者も被災経験のない人がほとんど。同じ立場の自分だからこそ伝えられることがあるのでは」と参加を決めた。学生たちは語り部の見学に何度も足を運び、自主的な勉強会や伝承の会との打ち合わせを重ねた。