東京メトロがようやく株式上場、実現のカギは有楽町線の延伸だった?
東京メトロ有楽町線は10月30日に開業50周年を迎えた。1974年10月30日、池袋~銀座一丁目間で開業した有楽町線は、1980年代に池袋から和光市方面、銀座一丁目から新木場方面に順次延伸し、1988年6月8日に和光市~新木場間が全線開業した。豊洲~住吉間が間もなく着工するなど、全線開業後もさまざまなアップデートを続ける有楽町線の歴史とは。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也) 【この記事の画像を見る】 ● 全線開業後もさまざまな アップデートを重ねる有楽町線 筆者の年代だと有楽町線は比較的新しい路線という印象で、開業半世紀という実感は持てない。それはこの路線が、小竹向原~池袋間の「複々線」開業(1994年)、複々線を延伸する形で建設された「副都心線」開業(2008年)、そして間もなく着工する豊洲~住吉間の「分岐線」(2030年代開業予定)など、全線開業後もさまざまなアップデートを重ねてきたことと無関係ではないだろう。 有楽町線の構想は1968年、運輸省の諮問機関都市交通審議会が、練馬から向原(小竹向原)、池袋、護国寺、飯田橋、永田町、有楽町、銀座を経て明石町(新富町)に至る路線「8号線」を答申したことに始まる。なお、練馬~向原間は西武有楽町線として、分岐線とされた向原~成増間が本線になって実現した。
池袋~成増間は元々、丸ノ内線を延伸して対応する計画だった。しかし、混雑路線である丸ノ内線に延伸区間の新規利用者を受け入れる余地はなく、郊外私鉄と線路幅、集電方式が異なるため直通運転も不可能だった。そこで東武線・西武線との相互直通運転を前提としたバイパス線として計画されたのが有楽町線だ。 続く1972年の答申では、新富町から豊洲を経て新木場、さらに海浜ニュータウン(稲毛海岸、検見川浜付近)方面の延伸と、豊洲から東陽町、住吉、押上を経て亀有への延伸が示された。前者の新木場以遠は貨物線として計画された国鉄京葉線を旅客化して実現。後者は計画が進む有楽町線分岐線へとつながる。 ● 駆け引きの材料となった 江東区の14号埋立地 とはいえ現在の夢の島、東京都のゴミ最終処分場だった14号埋立地のゴミ埋め立ては1967年に終了したばかり。ゴミの層の上に土をかぶせて緑化した夢の島公園の整備を経て、湾岸地域の開発が本格化するのは1980年代に入ってからのことである。 東京メトロの前身である帝都高速度交通営団が1980年に新富町~新木場間の免許を取得すると、東京都は翌1981年に「東京都市計画都市高速鉄道網」を改訂し、答申の2区間を都市計画決定した。新富町~新木場間は1982年4月に着工したが、営団はこれに先立ち1月に豊洲~亀有間の免許申請を行っている。 免許申請書には整備目的として、(1)本路線が経由する江東区、墨田区、葛飾区の下町地区が首都圏の拡大に伴い、南北方向のベルト状に市街化が進んでいることへの対応、(2)沿線地域では東西方向に都心に向かう鉄道路線が整備されているが、亀有、押上、錦糸町、東陽町など南北方向を結ぶ交通機関はバスのみで、都市機能の充実、地域社会の振興、経済基盤、生活環境の強化に大きな障害となっていることを挙げている。 ただ、その裏には江東区の強い要望があったようだ。交通営団は新木場延伸を、東西線の混雑緩和と交通空白地域を一挙に解決する「緊急整備路線」に位置付けていた。延伸に必要な新たな車庫の用地は、江東区が所管する14号埋立地の一部を譲り受けたが、区は見返りとして豊洲~亀有間の早期着工を強く要望した。この区間はいつの時代も駆け引きの材料となるようだ。