花山法皇に矢を射かけて従者同士が乱闘! 藤原伊周・隆家兄弟が自滅した「花山院闘乱事件」
一条天皇の寵愛を受けた中宮定子の父、関白藤原道隆の死後、その座を巡って政争が繰り広げられた。一旦は道隆の弟である藤原道兼が関白に就くが、直後に死亡。後継争いは道隆の息子・藤原伊周と、道隆・道兼の弟・藤原道長の一騎打ちとなった。軍配は道長にあがるが、その後伊周は弟の隆家とともにまさかの大騒動を起こして権力争いから脱落する。その原因となった「長徳の変」を取り上げる。 ■甘やかされすぎた傍若無人の御曹司の末路 長徳元年(995)の4月から5月にかけ全国で疫病が流行し、朝廷でも中納言以上の8名が相次いで死去したが、そんななか、関白になったばかりだった藤原道兼も5月8日に死去した。ここに再び関白人事が問題となったが、結局政権を射止めたのは亡き道隆の息子・藤原伊周ではなく、道長であった。 道長は道兼同様、外舅であったうえ、道長のバックには一条天皇の母である東三条院詮子がいた。詮子は一時期道長と同居し、彼女が養育していた姫(源高明の娘明子)が道長の妻となるなど、兄弟のなかでも特に道長と親しかった。彼女は正暦2年(991)に出家して初めての女院となっていたが、以降も天皇に影響を与えており、道長を後継とするよう天皇に働きかけていたのである。 これに反発した伊周は7月、公卿会議(陣定/じんのさだめ)が行われる仗座(じょうざ)で道長と口論に及んだり、道長と伊周弟隆家の従者どうしが七条大路で闘乱になったりと、衝突を繰り返した。 しかし、結局、長徳2年正月、伊周は自滅した。伊周は藤原為光の娘のもとに通っていたが、ここで花山法皇に鉢合わせした。花山は亡き后妃忯子の妹を寵愛し、為光邸にしばしば通っていたのである。ところが、同じ女性に通っていると勘違いした伊周の従者は、花山法皇の従者と乱闘となり、法皇側に死者まで出た。 この一件を受け、天皇は伊周を大宰権帥、弟の隆家を出雲権守に任じて左遷する命令を出した。これに対して、伊周兄弟は定子の二条北宮に籠城して抵抗したが、天皇は検非違使に命じて扉を破壊させ、邸内を捜索させた。伊周は密かに御所を脱出して、西山へ逃走したが、結局捕まって九州へ送られたのであった。 監修・文/樋口健太郎 歴史人2024年2月号「藤原道長と紫式部」より
歴史人編集部