人生に意味はあるのか?……「あたりまえ」を疑うことで見えてくる「驚きの結論」
人生に意味はあるのか? 運命は変えられないのか? 誰もが一度はこういった哲学的な思考をしたことがあるでしょう。 科学哲学を専門とする阪大教授が、目からうろこの哲学体験を紹介します。 いざ、<哲学的思考>の深みへーー。 (※本記事は『哲学の世界』から抜粋・編集したものです。)
「あたりまえ」を疑うためのパラドクス
「哲学とはなにか」という問いに答えるのは難しい。だが、いかにも「哲学らしい」議論の例をあげることは可能であろう。たとえば、自明であるように思われる前提からすくなくとも一見妥当に思える推論によって驚くべき結論を導く議論である。これをパラドクスという。 本書では、これまで提案されてきた哲学的なパラドクスのうち、単純な構造をもち、専門的な知識も要らず、前提が自明であるようにみえながら驚くべき結論――たとえば、「時間は流れていない」、「運命は決まっている」、「子どもを産むことは倫理的に悪いことだ」など――を導き出すようなものをとりあげ、知的刺激に満ちた「哲学の世界」へと読者を誘うことを目的とする。 本書でとりあげるのは、前半は「時間」に焦点をあてたもの、そして後半は「人生」に焦点をあてたものとなっている(しかし、議論の過程でそのほかのトピックもとりあげられる)。 本書を通じて読者は、提示された議論の結論を認めようと認めまいと、私たちがこれまで「あたりまえ」だと思っていたことがまちがっている、もしくはすくなくとも自明ではないことに気づくだろう。 すなわち、自明に思える前提から妥当な推論を用いて驚くべき(直感的には受け容れがたい)結論を導き出すわけだから、まず、その結論を認めるならば、それまでの常識がまちがっていたということになる。しかし、その結論を認めないとしてもやはり私たちの常識がまちがっていたということになる。 なぜなら、前提から妥当な推論によってその結論が導かれたわけなのだから、結論がまちがっているということは(自明だと思っていた)前提のいずれかがまちがっているということになるからだ。 もっとも、推論が妥当でない場合もあり得るが、それも、その議論に明示されていない隠れた前提がある場合がほとんどである。そして、そのような前提が明示されていないのは、自明すぎて意識されていない前提であったからの場合が多い。それゆえ、その場合でも結局、私たちは自分の常識を疑わなければならなくなる。 本書の第一の目標はあくまで「哲学のおもしろさ」を読者に伝えることにあり、読者の「世界・人生のみかた」に変革を与えることにある(それが成功しているかどうかは読者の判断にゆだねる)。それゆえ教科書的な正確さや便利さは二の次となっていることは強調しておきたい。繰り返しになるが、読者は本書の議論を鵜呑みにするのではなく、ぜひ本書とともに各トピックについて哲学的に思考することに挑戦してほしい。
森田 邦久