桧山進次郎の壮絶な代打人生
代打への責任と集中力
桧山は、決して入団当初からスポットライトを浴びた選手ではない。どちらかと言えば挫折を繰り返して這い上がってきた雑草のプレーヤーだ。東洋大出身の即戦力の野手として1991年のドラフトで4位指名された。ちなみに1位は、甲子園で優勝していた大阪桐蔭の萩原誠、2位が現一塁コーチの久慈照嘉、3位が弓長起浩だった。当時の監督が現在GMの中村勝広氏で、いきなり5月の巨人戦で一軍昇格、即スタメン抜擢のチャンスをもらったりしたが、結局、3年間は、ほぼファーム暮らし。大学時代は内野手だったが、プロに入って外野転向。その守備力もバッティングもプロのレベルに追いつかなかった。 1995年に中村監督が途中休養、藤田平新監督は、指揮を取ることになった初戦に希望の2文字を添えて桧山を4番抜擢した。その後、レギュラー定着するが、2000年に突如、ノムさんにスタメンを外され、2001年には再び復帰して打率3割をマーク。2005年、2006年あたりから代打1本で生きる現在のポジションとなった。 桧山に代打の心構えについて取材したことがある。 「準備ですよね。どんな状況で声がかかってもいい準備。それと、どう気持ちを切り替えて集中するか」 集中力の訓練は、試合前のバッティング練習から始まる。 桧山は、初球を軽く流しては打たない。その1球目を必ず、まるで試合にように集中して打つのである。そして、準備として大切にしていたのが配球の読みだ。 これはノムさんの影響である。ノムさんが、ベンチでボソボソとぼやく配球論を側で聞きながら配球論を学んだ。代打業はミスショットができない。スタメン選手のような4打席トータルでの配球マネジメントなどもは通用しない。桧山は、配球については「迷わない」という極意だけを守っていた。 勝敗の帰趨(きすう)を預かる代打業のプレッシャーは生半可ではない。 名城らボクサーとの交流に大きな刺激を受けた。 「オレたちは一打席終わったら、次があるけど、ボクサーは、その1試合で負けたら次まで何か月も時間がかかる。しかもファイトマネーも多くはない。そんな環境でやっているのに、プロ野球選手は失敗しても、次の日にチャンスがある」 だからこそ1打席の重みを背負いながら打席に入ってきた。 その責任感が、桧山にストイックなまでの鍛錬と努力を続けることを宿命づけた。 苦しい時、“元祖、代打の神様”、八木裕氏からは「代打なんかたった1打席で結果出せるもんじゃない。気楽にやれ」と声をかけてもらった。現役時代は重なっていないが、浪花の春団治と呼ばれ代打で生きた川藤幸三氏にも「オレを代打で出す方が悪いんやというくらいの気持ちでおったらええ」という心構えを教えてもらったこともある。 そう言われば気も楽になるが、やはり心ゆくまで、練習と準備をしておかねば、責任感に押しつぶされるそうになる。それが桧山進次郎という代打屋のプロフェッショナルのプライドでもあった。 「正直、ホッとしている」 22年間、背負ってきた宿命からの解放。 引退会見で吐露した言葉に、桧山の壮絶な代打人生をもう一度、思い浮かべた。 (文責・本郷陽一/論スポ)