「空想している時間は“脳汁”が出ます」―― レイトン、妖怪ウォッチの作者・日野晃博の創造性
試された気分で仲間と起業
そんな日野さんだが、当初は強い独立志向があったわけではなかったという。ゲーム制作会社に在籍していた1997年ごろ、「プレイステーション」のソフトを統括するソニー・コンピュータエンターテイメント(SCE。現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の佐藤明副社長(当時)と話をする機会があった。 その佐藤さんに対して、僕はSCEの社員になってドラクエのようなゲームを開発できたらいいなと話したんです。ところが、佐藤さんは僕に「ソニーに来ると、また会社で言われたものをつくらないといけない。それより、君は自分で会社をつくり、好きなものをつくったほうがいい」と言うわけです。「え!」と驚きました。でも、これは裏を返せば、覚悟を試されているなと受け取ったんです。試されているんだとしたら、覚悟を示さないといけない。それで一緒についてきてくれるスタッフと立ち上げたのが、レベルファイブなんです。 ──起業にあたって不安は? 悩んだ記憶がないんですよ。むしろ当時「プレイステーション2」という新しいハードが出ると聞いて、新しいゲームをつくれる!と、そっちに関心がありました。最初のメンバーは9人、すぐに2人増えて11人で開発をはじめました。最初は余裕もないので、1時間200円の会議室とか使っていました。
──1作目のアクションRPG「ダーククラウド」はいきなり海外で100万本を超えるヒットになりました。その後は「ドラゴンクエストVIII」の開発に携わることになります。 ちょうど「ダーククラウド2」という作品をつくっているところに、あるプロデューサーからドラクエに似たような作品の開発話があったのですが、その時は手が空かないので引き受けられませんでした。ところが、ある日その人との飲み会の席で「ドラゴンクエストVII」のときの僕なりの不満というのをつい並べ立ててしまったんです。僕のドラクエ愛は相当深いので。細かく延々と話したら、「そんなに愛があるんなら、ドラクエ作ればいいじゃないの」という話になり……。じゃあ、とデモで3Dのドラクエをつくったんです。従来の2頭身ではなく8頭身で。それをコンペに出したところ、気に入ってもらえて話が進みました。 ──その「細かい点」とはどういうものですか。 ドラクエのアートには独特のルールがあるんです。たとえば海に近い街の壁はグレーなんですが、海のすぐ近くにある家は青いグラデーションがかかるとか、海からの光の照り返しがあります。それは長年ドラクエをつくってきたアート担当者のこだわりなんです。そこで「VIII」や「IX」では、そうしたドラクエのルールをしっかり適用して制作しました。