「Ultraman: Rising」世界の大地に立つ―自由になったウルトラマンが特撮を超え、歴史を超える日
世界市場への挑戦と伝道師
アニメーションでは「ウルトラマンUSA」が87年に北米でオンエアされていたが、制作は日本国内のプロダクションだった。海外製という意味では90年の「ウルトラマングレート」、そして93年の「ウルトラマンパワード」がある。それぞれ豪州製、米国製で、特に「グレート」の撮影現場には円谷プロダクションの旧来スタッフも参陣して円谷特撮のメソッドが持ち込まれており、オープンセットの美しい特撮風景は現在でも評価が高い。しかし両作品とも、その販路はあくまで日本国内が主眼だった。海外制作かつ全世界同時配信というのは当作が初なのである。 昨年行われた、円谷プロダクション創立60周年記念〝TSUBURAYA CONVENTION 2023〟には、当作のシャノン・ティンドル監督が登壇した。ファシリテーターの塚越隆行会長の語るところによると、彼は「ラフカディオ・ハーンになりたい」と話したという。日本の文化を世界へ伝えた人物を理想とし、当企画を20年前から考えていたとも語るティンドル監督は、日本の特撮に恋い焦がれ、いつか自身の手によるウルトラマンを実現したかったのだ。 彼と共同監督ジョン・アオシマによる本作のテイストは、旧来のウルトラマンファンにとっては意外なものと受け取られるかもしれない。それは本作が単なる解釈替えをした作品ではないからだ。ネタバレは避けたいので物語には触れないが、いろいろな箇所がわれわれの知るウルトラマンとはかけ離れている。
戦争の呪縛からの解放と普遍の思い
しかし、特撮から離れて3DCGアニメーションという描画表現を得た本作は、同時に戦後の呪縛からも解き放たれている。振り返ると60年代のウルトラのシリーズは〝戦争の呪縛〟にとらわれていた。バルタン星人による侵略を描いた第2話「侵略者を撃て」、米ソの宇宙開発競争を下敷きとしてジャミラの悲劇を描いた第23話「故郷は地球」、〝国連の一員〟を感じさせる万博的な風景や多数出演する欧米人の姿は、子ども心にも敗戦の劣等感を糊塗(こと)し、〝脱戦後〟を必死に叫ぶ、敗者の裏返しの姿のようにも思われたものだった。 しかし本作は北米のプロダクションを糾合して制作された。「スター・ウォーズ」のVFXを生み出したILMも参加し、世界中のすべての人々を喜ばせようと、日本人だけではない、全地球人に対して発信された作品なのだ。もはやかつての戦争の彼我などは一切関係無く、〝復興〟の怨念(おんねん)のような暗い情熱を感じることもまったく無い。すべての思想的なくびきから解放され、世界中の子どもたちへ向けた、新しいウルトラマン像がこの作品にはある。いや、実はこれこそがウルトラマンの本来の姿なのではないか。かつての初作クリエーターたちが目指したコンセプトとは、無意識の平和への祈りと、人々に夢を与えるエンターテインメントそのものだったのではないか。政治は混乱し、テロリズムが首都を襲い、キャンパスでは思想運動が暴走し、学生たちが世界平和の夢を叫び続けたあの時代――あれほどに混沌とした時代に生まれたウルトラマンが、真に目指していた姿は当作のように闇の無い、万人を喜ばせる平和な世界ではなかったか。 「Ultraman: Rising」がわれわれの知るウルトラマンと違っていたとしても、現在の世界中の人々が超人に求める思いは初作と同じはずであり、そして作品として応えるものも同じはずである。なぜならこの作品にはすべての生命に共通する「絆」という、普遍の思いが込められているからだ。それは異種であるヒトを救って死んだピグモンの悲しさや、虚空へ望郷の鳴き声を上げ続けるシーボーズの切なさと同義だ。怪獣たちはまるでヒトのように「絆」を求めていた。そして現代、銃弾と暴力に引き離された人々が涙する国際情勢を見ていると、「絆」を求める気持ちはやはり万国共通、生命共通だということが確信できる。