子どもより親を悩ませる自由研究の“自由”とは? 小島慶子が35年経って気づいた本当の意味
いつもと違うことをする自由が、人生を豊かにする
最近は「体験格差」が注目されています。経済的に余裕がない家庭では、子どもに習い事やレジャーでさまざまなことを体験させてあげる機会がありません。子どもの「体験の貧困」は、学習意欲や課題解決能力などに影響を及ぼします。いつもと違うことをする機会に恵まれていない子どもは、せっかく何か新しいものに出会ったり挑戦するチャンスを得たりしても興味を示さず、どう行動したらいいかもわからないのです。 この体験格差の問題を知るまで、私は夏休みの自由研究なんて大人が子どもにのんびりさせないための嫌がらせみたいなものだと思っていました。でも、いつもと違うことをする自由が、人生を豊かにするのですね。親としては、とにかく期限内にクオリティの高いリポートを完成させなくては!とつい我が子を手伝いたくなるでしょうが、目的はそこじゃありません。期限切れで失敗したっていい。それもまた大事な体験です。 そもそも自由は、与える側にも覚悟が必要なものです。教師が「では、この文章の感想を自由に書いて発表しましょう」と言ったら、提出されたものを見て「これは感想になっていない」なんて言っちゃいかんのです。ヘイト発言など人権を侵害する言動は許されませんが、そうでない限りは多様な「自由」を認めねばなりません。「自由に」と言ったんですから。意表をつくものでも頭ごなしに否定せず、「どうしてこう書いたのかな」と質問する。糾(ただ)すのではなく、あなたを知りたいという気持ちを込めて尋ねる手間を引き受けねばなりません。 自由って、めんどくさいんです。与える側も与えられる側も。親もそれをちゃんと引き受けなくちゃ。与えられた自由を子どもがどのように使うのかを、余計な手出しをせずに見守るのです。 そんな多様な自由なんてものを認めたら、人々が上の言うことを聞かなくなってしまう!と心配するリーダーは、人々から自由を取り上げます。そこまで露骨でなくても、「自由に」と言いながら「察しろ」というメッセージを出すやり方は、学校や職場でもなじみがあるでしょう。 「自由に感想を書いてね(先生の期待に沿う形で)」「自由に過ごしていいよ(大人が想定している範囲内で)」と、「自由」が条件付きであることを匂わせるのです。そんな大人の態度から子供が学ぶのは、空気を読んで良い子を演じていれば世の中を上手に渡れるということ。そうやって上の顔色を窺って忖度する人が増えれば、力を持つ人は世の中を思い通りにできます。 だから夏休みの自由研究では、子どもに空気を読ませてはいけないのです。いつもと違う体験を、どう活かすのかは本人次第。どんな感想を持つのか、体験から何を学ぶのかも、親には決められません。子ども自身も「こんなこと何の役に立つのかなあ」と思いながらやっているぐらいで、ちょうどいいんじゃないでしょうか。 中3の夏休み、私はクーラーのない自室で汗だくになって、倉敷と津和野のガイドブックを万年筆でひたすらノートに書き写していました。自由研究で、秋の修学旅行の資料作りをしていたのです。写真を模写しながら「これ何の意味があるのかな」と思ったけど、なぜか楽しくてやめられなかった。「鷺舞」という津和野のお祭りの舞のイラストだけは、強烈に覚えています。あとは記憶にありません。 大人になった今、スマホで検索して夢中で旅の計画を立てている時や、あれこれ資料を調べて原稿を書いている時に、よく汗だくの自由研究を思い出します。仕上がった分厚いノートを大満足で提出したあの自由研究は、私にとっては小さな成功体験だったのだと思います。その延長線上に今の仕事や趣味の喜びが確かにあるよなと、35年経って実感しているところです。自由研究は、自分を研究することなんですね、きっと。