J1復帰を狙う松本山雅の田中が継承する亡き松田の魂
心身ともに辛かったのは術後の約2週間。網膜が剥がれないように特殊なガスを入れた右目を安定させるために、一日のほとんどをベッドでうつ伏せになって過ごさなければならなかった。 脳裏にはさまざまな不安が駆け巡る。大好きなサッカーが再びできるのか。何よりも、再び見えるようになるのか。得体の知れない恐怖と戦っていくうちに、田中はある覚悟を抱くようになった。 松本市内の病院へ転院した7月6日に、自ら希望した者会見で病状を説明した田中は、離脱後で初めて更新した翌日のブログにこんな言葉を書き記している。 「試練というのは、乗り越えるためにあると思っています」 ひたすら安静に務めるだけの日々を送るなかで、7月31日に34歳の誕生日を迎えた。忘れもしない5年前の暑い夏。急性心筋梗塞に倒れ、天国へ旅立ってしまった松田直樹さんの年齢に追いついた。 親しみと尊敬の念を込めて「まつさん」と呼び、横浜F・マリノスユースからトップに昇格した2001年から、常に松田さんの大きな背中を追いかけてきた。いまも愛してやまない先輩は試練に立ち向かうことはおろか、大好きと公言してやまなかったサッカーをすることすらもできない。 その松田さんがマリノスを追われるように退団した2010年のオフ。終の棲家として選び、必ずJ1へ昇格させると情熱のすべてを注ぎ込んだのが当時JFLの松本だった。故人の遺志を継ぐように、名古屋グランパスを戦力外になった田中は2014年1月、J2に昇格して3年目の松本の一員となった。 その際、松田さんの象徴であり、背負いたいと望む選手が現れるまで空き番となっていた「3番」を引き継いだ。そのときに抱いた決意は、いまも変わらない。 「山雅の『3』は特別な番号だし、まつさんの魂や思いを抱いて戦わなければ背負う資格はない」 主治医から右目の完治を告げられたのが8月19日。わずか5日後には全体練習に復帰し、9月11日の京都サンガ戦からは戦列復帰。横浜FCに逆転勝ちを収めた今月20日の最終節まで、何事もなかったかのように「3‐4‐2‐1」の右ワイドとして12試合連続で先発フル出場を続けた。