現代アートが1980年代に「変わった」のはなぜか、「ビフォー1980」と「アフター1980」の違いとは
また、発展の道も不透明です。右肩上がりであればその先を見通すことができましたが、いまや次はどっちへ向かうのか誰にもわからなくなりました。曖昧で不透明、混沌として不合理。それがアフター1980のアートでした。 ■「シミュレーショニズム」と呼ばれた作品 1980年前後の時期に一風変わったアートが出現しました。それは、シンディ・シャーマンが撮影し続けた写真シリーズで、モデルは自分自身でしたが、その〝モデルぶり〟がいささか奇妙でした。
シャーマンは、映画の一場面みたいな既視感を伴いつつ、あるときは都会でバリバリ働くキャリアウーマンのように写るかと思えば、あるときは素朴な田舎の少女のような佇まいで写りました。 かと思えば、何かの事件に巻き込まれた女性のように写るときもあれば、また別のときは大学教授の秘書か何かのように写るのでした。シャーマンはその一連のシリーズを《アンタイトルド・フィルム・スチル》と名付け、1977年から80年にかけて制作しました。
《アンタイトルド・フィルム・スチル》に写された女性はすべてシャーマンではありましたが、一枚一枚の変わりぶりが激しすぎて、見る者はどれがほんとうのシャーマンなのか見極めがつかず戸惑いを覚えることになりました。 すべての写真のモデルはシャーマン本人には違いなかったので、どれもシャーマンとはいえましたが、同時に逆に、どれが真実かわからないので、どれも本物のシャーマンではないということもできました。 真実と虚構の区別がつきませんでした。つまり、シャーマンが扮したのは「誰でもあって、誰でもない私」としかいいようのない何とも不思議な人物像なのでした。
■不確実性の時代を生きる人々の心に響いた この作品は大きなインパクトをもたらしました。真の「私」はどこにいるのか。全部で70枚もの写真がありながら、どこまで行っても確信が持てない「空洞化した私」しか見出せないという虚構感が作品には漂っていました。それは確かなものの手応えがない時代にふさわしい表現というべきもので、不確実性の時代を生きる人々の心に響きました。 「誰でもあって、誰でもない私」、それでも存在している「私」とはいったい何なのか。そのありさまは、アイデンティティを見失いつつあった人々自身のあり方とオーバーラップしたのです。