『おむすび』で一人気を吐く松平健(70)。知られざる“山あり谷あり”の俳優人生
勝新太郎との出会い
1972年7月に始まったこのドラマに健さんが出演したのは1974年2月の第81回。当然のように犯人役だったが、目立った。 直後、TBSの特撮ドラマ『ウルトラマンタロウ』(1973年)のタロウ役の選考にも最後まで残ったものの、これは落ちた。合格したのは二枚目俳優として鳴らした篠田三郎(75)である。 しかし、落ちて良かったのだろう。20歳だった1974年、大きな転機が訪れた。劇団フジの主演舞台の脚本を書いていた作家が、勝新太郎さんの主演映画『座頭市御用旅』(1972年)の脚本も手掛けていた縁で、勝プロダクションのプロデューサーが舞台を見に来た。 プロデューサーは健さんの演技に惹かれたらしく、「勝に会ってみないか」と誘った。くしくも裕次郎さんと勝さんは親友である。 勝さんと健さんが会ったのはフジテレビの控室。勝さんは健さんを見つめた後、唐突に「お前、京都に来られるか」と言った。健さんは「はい」と答えるしかない。勝さんは美顔で身長が179センチもある健さんに将来性を見出したらしい。一方で健さんは京都に行く意味が分からなかった。 それでも言われるままに京都・太秦のスタジオに出向いた。すると勝さんはフジ『座頭市物語』(1974年)の撮影を止め、健さんにカメラの前に立つよう命じた。 「俺が言うから芝居してみろ」「ここに何十年ぶりに会うお母さんがいる。顔を上げて『お母さん』って言ってみろ」。いきなりのカメラテストである。勝さんは思いつきで行動する人で、若手俳優や若手記者を困らせるのも好きだった。 テストが終わると、勝さんが言った。「しばらく俺の横で見てろ」。勝さんの演技を見て勉強するように命じたのである。健さんは京都に来たら役がもらえるのではないかという淡い期待も抱いていたが、見込み違いだった。来る日も来る日も勝さんの演技を見るだけの日々が続いた。
「主役以外やったらダメだ」
ようやく『座頭市物語』にゲスト出演したのは数カ月が過ぎてから。1975年放送の第23回である。演じたのは庄屋の息子役で、浅丘ルリ子(84)演じた三味線弾きと駆け落ちするという設定だった。 勝さんは勉強を積ませた健さんに大女優との共演を用意した。心憎い配慮である。あまり知られていないが、浅丘は健さんが石原プロに入社を希望した1970年には同社に所属していた。 翌1976年4月からは初主演作を得た。巨匠・五味川純平さんが戦時下の人間を描いたフジ『人間の條件』である。1959年に公開された映画版で仲代達也(91)が演じた梶役だ。 ドラマ版のチーフ監督は元日活の沢田幸弘さん。『太陽にほえろ!』に健さんが出演したときの監督で、裕次郎さんと親しかった。健さんは不思議と裕次郎さん、勝さんとの縁が濃かった。 しかし、ドラマ版『人間の條件』はあまり当たらなかった。放送時間帯は平日午後1時半から。昼メロの時間帯だ。硬派作品としてスタートしたものの、途中から徐々に梶の妻・美千子(堀越陽子)の視点が増え、昼メロ色が出てきてしまい、テーマが曖昧になってしまったからである。 以後の健さんは仕事のない時期がない日々が続く。勝さんから「主役以外やったらダメだ」と命じられたからである。もどかしかったのではないか。もっとも、仕事はなくても給料はもらえた。お陰で悠々と生活することができた。気っぷがいい勝さんらしいが、一方で勝プロが巨額の負債を抱えて1981年に倒産したのもうなずける。