「あなたの余命は半年です」その瞬間、宮川花子の脳裏をよぎった言葉とは
初対面の病院の医師が「母がお世話になりました」。……何言うてはるんやこのセンセ?
その後、奈良県立医科大学附属病院の血液内科へ。このときに出会ったのが、今もお世話になっている主治医の天野逸人先生だったのだそう。花子さんと大助さんの顔を見たとたん、『うちの母がお世話になりました』と丁寧におじぎをした先生。二人は顔を見合わせて「何、言うてはるんやろ?」と思ったといいます。 「じつは、大助くんがその理念に感動してボランティアに行っていた福祉施設『アガペの家』の息子さんだったのです。そういえば、私もおじゃましたことがありました。『天野のおばちゃんのボンかいな!』と喜ぶ大助くんの様子に、なんとも不思議なご縁を感じたものです」 天野先生のもとで生体検査を受けた結果、当初疑われた内臓から背骨への転移ではなく、形質細胞腫という診断が下されました。骨髄に形質細胞腫が10 %以上あれば「多発性骨髄腫」と診断されますが、この段階で腫瘍があったのは、第2腰椎と第5腰椎だけ。ひとまず「余命半年」という切羽詰まった事態からは逃れられたことに胸をなで下ろした二人だったのです。 「天野先生は『抗がん剤、放射線治療、重粒子治療といろいろ選択肢はあるけど、骨やったらまず、放射線の照射です』とおっしゃり、都島放射線科クリニックで放射線治療をすることに。周囲の誰にも病気のことは知らせず、仕事も普段どおりにこなしながら約2カ月で14回の放射線治療を受けました。先生も『よう効いてる!』と言うほど、がんの数値は見る見るよくなり、治療はいったん終了。これで大丈夫、すべて順調でよかったとほっとしたものです」 放射線治療中の4月1日には、なんばグランド花月で紫綬褒章記念イベントを開催。受章したのは前年秋だったものの、二人の結婚記念日4月9日に近い日を選んだのでした。会場いっぱいのお客さまを前にすると、花子さんは「腰が痛くて本番15分前まで楽屋で横になっていたのがうそのように痛みを感じなかった」というから驚きです。 「トークのときこそ座らせてもらいましたが、漫才もお芝居も笑顔でこなし、最後はみんなとダンスまで踊ったのです。楽屋での姿を見ていた吉本興業の前会長が『このNGKには笑いの神さんがいてる。やっぱり、ここにはな』としみじみおっしゃったのが忘れられません。私も感無量でした」 花子さんは放射線治療を頑張った甲斐があり、治療はひとまず終了。この先は再び穏やかな毎日に戻れると期待が膨らんだに違いありません。それなのに、なんとも神様は意地悪……。今度は地獄のような壮絶な闘病生活が始まるのでした。 闘病生活の入り口をお話いただいた本編に続き、続くお話では、進行する多発性骨髄腫、不意の骨折。痛みのあまり寝返りも打てず「地獄やあ、地獄やあ」とうめく日々をお聞かせいただきます。
漫才師 宮川大助・花子