【全日本プロレス 宮原健斗】12.31代々木で7度目の三冠王座に返り咲き、エースとして2024年をスタートさせる
2008年2月、真田聖也(現SANADA)戦でデビュー
練習が厳しいと噂されていた健介オフィス。寮生活は練習と洗濯と掃除、外出はスーパーの買い出しのみ。 「寮生活で自由はなかったですね。僕の中で『プロレス業界はこんな感じなんだろう』と予想はしていました。練習もほぼ想像通りでしたね。ただ自由がない生活なので、シンドイと言えばシンドイですよ。でも18歳でプロレスラーになる目標があったので自分の道を純粋に歩けたのかもしれませんね」 宮原は2008年2月11日に真田聖也(現SANADA)戦でデビュー。緊張のあまりデビュー戦の記憶がないレスラーは大勢いる。宮原もその一人だ。 「デビュー戦は覚えていないですね。試合前、健介さんの荷物整理から始まり、試合中はセコンド業務もあります。新人の頃は仕事量が多く、自分の試合だけに集中することはできなかった。『あの荷物持ったかな?』とか気にしなければならないこともたくさんありましたからね」 デビュー当時は多事多端で心身ともに余裕のなかった宮原も、今では、入場した瞬間から退場するまで「スーパースター‘宮原健斗’」をファンに見せてくれるゆとりさえが感じられる。宮原本人が思い描いた「宮原健斗」とファンが求める姿が一致したのは、いつ頃だったのか? 「2016年に三冠ヘビー級王者になってからですね。自分の身体、言動、表情で会場のお客さんを魅了できるようになったのは2017、2018年くらいです」 著者が宮原健斗に注目したのは、2019年2月19日に両国国技館で開催された「ジャイアント馬場没20年追善興行」。メインイベントのリングに登場した宮原は、対角に立つ‘100年に1人の逸材’棚橋弘至(新日本プロレス)と同等か、それ以上のオーラを放っていた。
ダイヤモンド・リングを離れ、全日本プロレスに参戦
デビュー後、所属していたダイヤモンド・リングだけでなく全日本プロレスやプロレスリング・ノアにも参戦していた宮原は2013年9月、ダイヤモンド・リングを退団。2014年1月、全日本プロレスに入団した。 「ダイヤモンド・リングの興行が少なくなると聞いて退団を決めました。デビュー6年目、僕は試合をしたかった。それで健介さんと北斗晶さんに相談しました。ちょうど全日本からオファーをいただきました。もちろん当時、僕がダイヤモンド・リングを辞めることは、全日本では誰も知りません。その時期が重なって運命的なものを感じたんです」 ダイヤモンド・リングは佐々木健介と北斗晶を中心とするアットホームな団体。一方、全日本プロレスは新日本プロレスに次いで、存在するプロレス団体としては二番目に歴史が古い団体だ。老舗団体への移籍は、とまどいがなかったのだろうか? 「あの頃の僕は強くなることに必死。全日本の選手は体が大きく当たりが強かった。とくに当時の三冠ヘビー級王者が元横綱の曙選手、200kg越えの化け物です。一発の打撃がすさまじかった。でもこれを攻略しないと先がないなと。体格的には負けるけど、自分の体格でどうしたら三冠を獲れるんだろうって虎視眈々と狙っていましたね」 186㎝102kgとレスラーとして恵まれた体格を持つ宮原だが、全日本プロレスは規格外に大きい選手が多い。そんな超スーパーヘビー級のレスラーと日々戦うことで着実に力をつけた。