小倉智昭さん、“食べていくのがやっと” の状態から救ってくれた大橋巨泉への恩義…30年来の “戦友” が明かす義理堅い素顔
情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』(1999年4月~2021年3月・フジテレビ系)で、22年にわたりキャスターを務めた小倉智昭さんが12月9日、死去した。77歳だった。 【写真あり】『とくダネ!』後任者が明かした「小倉智昭さんの重圧」 「2016年に膀胱がんを公表してからは、まさにがんと闘う日々でした。当初は膀胱を温存していましたが、2018年、大量の血尿が出たため膀胱の全摘手術を受けました。その後、肺や腎臓にも転移していたことがわかり、今年1月には余命1年半が告げられていたと聞いています」(芸能担当記者) 芸能界にとどまらず、アスリート、アーティスト、文化人など多くの人々と交流があった小倉さん。惜しむ声が続々と寄せられているが、ベテラン芸能記者は「天国で恩人の大橋巨泉さんと再会して、思い出話をしているんじゃないかな」としんみりする。 小倉さんは獨協大学卒業後、1971年に東京12チャンネル(現テレビ東京)にアナウンサーとして入社した。 小倉さんの競馬実況ぶりが、同じくラジオ番組『大橋巨泉の日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)を持っていた大橋巨泉さんの目にとまった。前出・ベテラン芸能記者が続ける。 「巨泉さんが『小倉の競馬実況は日本一だ』と評していたことを聞いた小倉さんは、ある日、巨泉さんに『ニッポン放送で競馬中継をやらないか』と誘われ、フリーになることを決意。1976年に東京12チャンネルを退社して『大橋巨泉事務所』に入ります。 小倉さんは当時29歳。この頃、離婚もしています。しかし、競馬実況以外の仕事は入らず、『食べていくのがやっと』という生活でした。 そうしたなか、1983年に巨泉さんが司会していた『世界まるごとHOWマッチ』(TBS系)のナレーションを担当、特徴的な甲高い声でブレイクしたのです。番組で小倉さんが顔を出すことはありませんでしたが、ことあるごとに巨泉さんが『小倉! このバカ』と笑いながら怒鳴ったことから、名前が知られるようになったのです」(前出・ベテラン芸能記者) その後の活躍はよく知られるところだが、小倉さんは、どれだけ売れっ子になっても巨泉さんの事務所を離れることはなかった。 小倉さんの3年後に巨泉さんの事務所に入り、30年来の “戦友” となったナレーターの乱一世さんは、本誌の取材に当時を振り返り、こう語る。 「局アナをやめたものの、仕事が思うように入らず、暗澹たる気持ちだったと思います。そこから引き上げてくれたのが巨泉さんですから、ものすごく恩義を感じていました。 小倉さんの言葉でいまでも覚えているのは、通常、事務所のマネージメント料は20~30%ですが、小倉さんは『俺が納得して楽しめる仕事なら、マネージメント料は50%でもいい』と言っていました。それだけ事務所に恩返ししたい気持ちを持っていたのでしょう。 いつも『巨泉さんがいなかったら、俺はどうなっていたんだろう』と言っていましたね」 稀代の名MCになった小倉さん。そこには恩人・大橋巨泉さんとの強い絆があったのだ。