140年前より後退したニッポンの女性天皇議論 成城大教授・森暢平
◇社会学的皇室ウォッチング!/115 これでいいのか「旧宮家養子案」―第17弾― 始まったばかりの皇位継承に関する各党各会派代表者会議が迷走中だ。142年前、明治初年の女性天皇議論と比較するとき、議論の貧困さは目を覆うばかりである。せめて、国民に開かれた侃々諤々(かんかんがくがく)のやり取りをしたらどうか。(一部敬称略) 1881(明治14)年10月、国会開設の勅諭(ちょくゆ)が発せられ、明治政府は、国民の代表が討論する場である国会の9年後の開設を約束した。それを機に民権派の憲法議論が盛んになり、皇室に関する議論も行われる。自由民権結社である嚶鳴(おうめい)社は82年1月14日、「女帝を立つるの可否」と題した討論会を実施する。 民権派の論者として知られた肥塚龍(こいづかりゅう)は、女性天皇・女系天皇を支持し、次のように主張した。「(天皇を男性に限ると考える)論者は、『男子を尊ぶのは日本では祖先から行われている慣習であって、慣習であればこそ廃止できない』と言う。これは保存すべき慣習と廃止すべき慣習を区別していない論である。ある学者の言に『慣習はなるべく残した方がよい。ただし良くない慣習は廃止しないといけない』とある。慣習を重んずるかどうかの基準は、新しいか古いかではなく、人々にどのような利害をもたらすかである。ただ古いものを尊ぶのは骨董家(こっとうか)である。論者よ、骨董家となるなかれ」(中央大教授・大川真の現代語訳を利用し、一部、改変省略した) 肥塚に対し、『東京横浜毎日新聞』で筆を振るった島田三郎は、次のように反論する。「政治は『時勢人情』(時代の趨勢(すうせい)や民衆の実情)を基本としなければならない。我が国の現状では、男を尊とし女の上に位置づける。今、仮に皇婿(こうせい)(女性天皇の夫)を立て、憲法上、女帝をもっとも尊い位にした場合、天皇の上位にさらに尊位を占める人(皇婿)がいると考えてしまうのは、日本の国民にとって免れ得ないところであろう」(同じく、大川の現代語訳を利用し、一部、改変省略した)