阿川佐和子「青虫吐息」
阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。バルコニーに置いてある小さなレモンの木の葉の上に鳥の糞のような黒いものを発見した阿川さん。それはよく見ると動いていて――。 ※本記事は『婦人公論』2024年10月号に掲載されたものです * * * * * * * バルコニーに置いてある小さなレモンの木の葉の上に、ある日突然、鳥の糞のような黒いものがひっついているのを発見した。一つ、二つ、三つ……、九つもある。 「なんじゃ、これ?」 よく見ると、かすかに動いている。動きながら、レモンの葉をごしごし咀嚼している。 もしかして……。 話は一ヶ月ほど前に遡る。バルコニーに黒白アゲハチョウが迷い込んできた。ヒラヒラと頼りなげながら、我が家の植栽の間を飛び回り、ときおり風に飛ばされて、どこかへ行ったかと思ったら、また戻ってきて葉の上に止まったり、またヒラヒラと飛び立ったりを繰り返すうちに消えた。 もしかしてあのアゲハチョウが卵を置き土産にしていったのではあるまいか。不気味だ。一気に処分しようと思ったが、いや待てよ。 せっかくアゲハチョウの母親が、ここなら安全だろうと思って産み落とした子供たちである。捨てるにはしのびない。さりとてこのまま幼虫たちにレモンの葉っぱを提供し続けたら、レモンの木はどうなるだろう。 しばし迷って決めた。今年はレモンの木に犠牲になってもらおう。
数日後、観察にいくと、鳥の糞のようだった黒い幼虫が、鮮やかな緑色に変身しているではないか。緑色の身体を覆う白や黒の節々のライン、目とおぼしき黒い点、そして全体の形状の美しいこと。芸術作品としか思えない。 「彩ちゃん、アゲハの幼虫がね」 秘書アヤヤに感動を伝えると、たちまち目をつぶり、顔をそむけて、「私、無理です」。 一緒に成長を見守ろうと思ったが、断念。 さて二日ほどモソモソ葉をっていた九匹の青虫たちはとうとうレモンをすっかり裸にしてしまった。大きさも三センチほどに成長している。食べるものがないと悟ったか、枝から降りて植木鉢のまわりをウロウロし始めた。他の住処を探しているのかもしれない。 ネットで調べたところ、卵を産み落とした黒白アゲハはナミアゲハと思われる。この種類の幼虫は柑橘系の葉しか食べないらしい。柚子やみかん、あるいはサンショウの木の葉を好むらしいが、残念ながらウチにはレモンの木以外、柑橘系の灌木はない。 どうしよう……。と、迷ううちに、植木鉢のまわりをウロウロしていた青虫が姿を消した。どこをほっつき歩いているんだ? 大捜索の末、六匹を発見した。 バルコニーの床をウロウロしていた二匹。沈丁花の枝にしがみついていた一匹。残る三匹は、なんとコンクリートの壁に張りついて、背筋を伸ばしている。サナギになる準備をしているのかもしれない。でもコンクリートの壁で大丈夫なのか? 生木のほうがいいんじゃないの? ほら、こっちに移りなさい。お箸でつまんで転居させようとしたが、粘膜でしっかり壁と密着し、剥がすことができない。