阿川佐和子「青虫吐息」
青虫のことが気になりつつ、仕事へ出かける。テレビ局にて、プロデューサーや若いスタッフやメイクさんなど八人ほどにさりげなく声をかけてみた。 「お子さんの夏休みの自由研究として、アゲハの幼虫を観察してみる気ない?」 「青虫ですか?」 あ、それは面白そうですね。ぜひ譲っていただきたい。そう反応する若親が一人ぐらいはいるだろうと予想したが、あに図らんや。 「あ、要りません」 「丁重にお断りします」 みごと全員にきっぱり断られた。 そんなに世の中、虫嫌いだらけなのか……。
私は子供の頃、虫めづる姫と呼ばれるほど虫とよく遊んでいた。 カマキリを捕まえて家に持ち帰ったり、蓑虫の蓑を剥がして中を覗いたり、団子虫を手のひらに乗せて転がしたり、カタツムリの角を突っついて遊んだり。 でも今の都会の子供、いや大人も、虫と接する機会はなくなったのだろう。馴染みがないから怖がる。それはしかたのないことだ。半ば諦めの心境で翌日、歯医者さんへ行く。 「もしかして、お宅のお子さん、アゲハの幼虫なんか、興味ないですかね?」 遠慮がちに訊ねたら、 「あ、興味あると思います」 実はその日、我が家で発見した青虫三匹(コンクリート壁から剥がすのに成功した一匹を含め)を小さな紙箱に入れて持ち歩いていた。どこかに柑橘系の灌木があったら、その枝にそっと置いてこようと企んでいたのである。 「え、引き取っていただけますか?」 感動した。ほらね、そういう家族だっているんだぞ、虫嫌いの者どもよ! 治療を終えたあと、忙しい歯医者さんを引き留めて箱を手渡しながら早口で詳細を説明。柑橘系の葉っぱを与えてくださいと言い残し、家に戻る。
帰宅して驚いた。コンクリート壁にへばりついてサナギになる準備をしているとばかり思っていた青虫二匹が黒ずんでいる。どう見てもサナギの姿ではない。干からびている。 さらに観察を続けると、沈丁花の枝に止まっていた青虫の様子もおかしくなった。ご臨終が近い気配がある。ああ、こんなことなら無理やりにでも引き剥がして、住み心地のいい柑橘の木に移住させるべきだった。 落胆していると、おやおや、七匹目の青虫。排水溝の小枝にしがみついていた。まだ鮮やかな緑色をしている。息もある。コイツだけは生き残らせたい。 私は最後の生き残りをお箸でつまんで小箱に入れた。敵が来たと思ったか、青虫はオレンジ色の角を二本突き出して、悪臭を放った。敵から身を守る術なのだろう。 「わかった、わかった。ちょっと我慢してね」 私は小箱を持って家を出る。歯医者さんからの帰り道、ビルの横にみかんの木を見つけたからである。木のそばへ寄り、小箱から箸で青虫をつまみ上げ、葉っぱの上に乗せる。 青虫は動こうとしない。が、まもなくのそのそと前進し、そしてゆっくり頭の先をかがめ、みかんの葉っぱを齧り出した。 やった! これできっと元気になるだろう。 私は蚊に食われた箇所を掻き掻き、みかんの木をあとにした。その後の消息はわからない。ただ生き延びよと祈るのみである。
阿川佐和子