『新潟少女監禁』『鳥取連続不審死』『山口連続殺人放火』etc…「家」が語る凶悪犯罪者の〝素顔〟
家には、その人物が重ねて来た人生、育ってきた環境、経済力、出自というものが、くっきりと反映される。そうした意味で、人間のもうひとつの顔であるとも言える。(『殺め家』「はじめに」より) 【ハムスターが干からびて】すごい…『鳥取連続不審死』犯人の女が愛人、子供と暮らした「ゴミ屋敷」 ◆逮捕直前まで殺人犯が住んでいた部屋 家やその人物が過ごしてきた環境には、その人の人生が滲み出る。犯罪が個人の性質だけでなく、その人を取りまいてきた環境にも原因があるとすれば、家は犯罪者のもう一つの姿を投影している。 ノンフィクションライター・カメラマンの八木澤高明氏が、過去に日本を震撼させた42の事件の現場を歩いた『殺め家』(鉄人社)では、「阿部定事件」など戦前の事件から「神戸連続児童殺傷事件」、「和歌山毒物カレー事件」「新潟少女監禁事件」など近年の事件までを取り上げている。 八木澤氏は’02年7月に発生した「群馬女子高生誘拐殺人事件」で、犯人が逮捕直前まで暮らしていた家に入ったときの体験を同書の「はじめに」で次のように記している。 二間の和室に台所がある長屋だったが、ホコリ舞う部屋に衣服などが散乱し、荒んだ生活が滲み出ていた。部屋には犯人が10年ほど前に撮った家族写真が残されていた。その人相はふくよかで、逮捕された時のげっそりと痩せた姿とは別人だった。 (中略) 殺人事件が起き、血が流れた現場以上に、犯人が暮らした家というのは、その人物の個性を物語っていて、生々しさがある。犯人と顔を合わさずとも、そこに犯人が立って、こちらを見ているような気になるのだった。 同書の中から、八木澤氏が歩いた現場の一部を紹介する。 ◆新潟少女監禁事件 ’90年~’00年 ’00年1月、新潟で9年2ヵ月にわたって少女を自宅に監禁した引きこもりの男(当時37歳)が逮捕された。男は1990年11月に当時9歳だった下校途中の少女にナイフを突きつけて脅し、車で連れ去ったのだ。男は懲役14年の判決を受けて服役。刑期を終えたのち、しばらくして千葉県内で亡くなっている。 八木澤氏がこの監禁現場を取材したのは事件が発覚してから数ヵ月後だった。男の母親を取材すると、家に入れてくれたのだ。9年以上にわたって男が少女を監禁していた2階に母親は上がったことがなかったという。男は食事を階段で受け取り、排泄はビニール袋で済ませていた、とのことだった。 階段を上がると、廊下の床の表面が剥げていた。排泄物を入れたビニール袋が置かれたため、腐ってしまったのだ。ドアを開けると、天井に吊るされたシャンデリアとセミダブルのベッドが目に入ってきた。被害者の少女は、このセミダブルのベッドの上だけでいびつな生活を続けていた。 男は世間と隔絶された部屋に己の世界を作り上げていたのだ。 ◆鳥取連続不審死事件 ’04~’09年 鳥取市内のスナックでホステスをしていた女(’09年逮捕当時35歳)を取りまく男たち6人が次々と謎の死を遂げた事件。女は2件の強盗殺人罪などで起訴され、’17年に死刑判決が確定した。八木澤氏が女が暮らしていたプレハブ長屋を訪ねたのは’10年秋のことだった。その日、大家さん立ち会いのもとで部屋を片付ける作業が行われていたため、許可をもらって中に入ることができたのだ。 部屋は天井までのわずかなスペースを除いて、すべての空間がゴミ袋で埋まり、部屋の片隅にあった鳥かごではハムスターが無残にも干からびていた。その異様な光景は、警察が部屋に散らかっていたものをゴミ袋にまとめたために出現したものだった。ここで女と子供たち、愛人が暮らしていた。さらには犬や猫まで飼っていたという。どうしたら、このような場所で生活できるのか。八木澤氏の想像を絶する闇がこの小さなプレハブ長屋に広がっていた。 彼女が幼少期から育った町で、よく遊びに来たという理容店の女性は「当時からコロコロしてて、ニコニコよく笑う子だったよ。未だにニュースを見る度に信じられないんよ」と話した。だが、違う土地で生まれたせいなのか、子供の頃から友達はおらず、その一方で高校時代には教師を名乗る年上の男ともつき合うなど、かなりませていたようだ。 寂しい幼少期を過ごした女は、心の隙間を男とつき合うことで埋めようとしていたようにも見える。いつしかそれがいびつな愛の形へと変わっていったのではないか。彼女があのゴミ屋敷で過ごし、犯罪に至るまでの道は、その青春時代から始まっていたのかもしれない。 女は’23年1月に広島拘置所で食べ物をのどに詰まらせて窒息死している。 ◆山口連続殺人放火事件 ’13年 現代の『八つ墓村』とも言われた、山口県の山間部にある8世帯14人の限界集落で起きた連続殺人・放火事件。犯人の男(当時63歳)は両親の介護のために44歳で故郷の集落へ戻ってきた。当初は村おこしを企画するなど、積極的に村の人たちと関わっていたが、両親が亡くなった頃から、次第にトラブルを起こすようになり、村八分のような状態になっていた。ある日、男は村人5人を次々と殺害し、家に火を放ったのだった。男は殺人、非現住建造物等放火の罪で’19年8月に死刑が確定している。 高速のインターから集落へ向かって車で走ると、放棄された廃田や崩壊した集落の無残な姿が目についた。さらに走った先に事件の起きた集落はあり、その入り口付近に男の家はあった。男の家は白い壁で覆われ、古い日本家屋しかない集落の中で異彩を放っていた。それは、土着の人々が暮らす集落でひとり浮いていたという男の姿と重なって見えなくもなかった。 ◆松山ホステス殺害事件 1982年 1982年の8月に愛媛県松山市内のマンションで当時31歳だったホステスが殺害された事件。犯人の福田和子(事件当時34)は、1997年7月、公訴時効成立3週間前に逮捕されるまでの約15年間、顔を整形して逃亡を続けた。無期懲役の判決を受けた彼女は’05年3月に脳梗塞で亡くなっている。そんな彼女が中学生時代に暮らしていた家を探すために八木澤氏が愛媛県今治市を訪れたのは’09年のこと。 「崩れそうな家が建ってるって話だよ、親から行くなって言われた場所だから、行ったことがないんだよ」 福田が暮らしていたという「ハーモニカ横丁」の場所を地元で暮らす男性に尋ねると、そんな答えが返ってきた。だが、なんとか探し出した「ハーモニカ横丁」には崩れそうな家はなく、ただ屋根付きの車庫が並んでいるだけだった。福田和子の母親は、この場所で飲み屋を経営し、ホステスに売春をさせていた。 福田和子の人生は生まれたときから逃亡生活に至るまで、土地から土地へと漂うような暮らしだった。果たして腰を落ち着けて暮らした家があったのか疑問だ。だが、その中でも、この今治という土地は彼女にとって特別に思える。逃亡中に一度長男に会った場所がここ、今治なのだ。そしてこの土地の人々はどこか彼女に優しい。 タクシーの運転手は自分のことのように感情移入して福田について語り、お好み焼き店の女性は「哀しくなるね、切なくなるね」と、一人の女性としての彼女の人生を悼んでいた。これまでに多くの犯罪者の故郷を訪ね歩いた八木澤氏だが、このような感覚を持つ地元の人々に出会ったのは初めてだったという。 犯罪者が暮らした家、育った土地、過ごしていた環境からは、事件報道の行間からこぼれ落ちてしまったさまざまな事情が見えてくるのだ。 『殺め家』(八木澤高明・著/鉄人社)
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