歩兵部隊も愛用した優秀なミニチュア万能砲【41式山砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 山砲(さんぽう)とは、軽量化された中口径以下の榴弾砲(りゅうだんほう)を示すことが多く、軽量化のために砲身を短くしたり、防盾など各種の付属物をできるだけ削ぎ落し、馬や車両による牽引だけでなく、簡単に分解・結合ができ、車載はもちろんのこと駄載や人力での搬送も可能なものが多い軽便な砲の総称である。 だが一方で「これが山砲だ」といった確定的な定義があるわけではなく、また、上述した山砲の特長は、人力が中心の歩兵部隊(後述の日本)や、空輸に頼る空挺部隊(アメリカ、イギリス)などでの使用にも好適といえた。 このような山砲だが、日本陸軍は日露戦争に31年式速射砲から派生した31年式山砲を投入した。しかし同砲は、速射性を担保する駐退復座機が初歩的なもので、ゆえに「本当の速射」はできず、毎分2~3発がせいぜいであった。というのも、発砲の度に反動で後退した砲を元の位置に戻し、改めて照準しなおさねばならなかったからだ。 そこで日本陸軍は、より高性能の山砲を求めることになった。そして1911年に41式山砲が制式化された。本砲には通常の駐退復座機が備えられており、弾薬も固定弾を用いることで毎分18~20発程度まで速射性能が向上した。もちろん山砲であるがゆえ、馬2頭での牽引だけでなく、分解して馬や人力での搬送も可能だった。 このような軽量かつ分解搬送が可能な41式山砲は、歩兵砲としても適していたので、41式山砲(歩兵用)として1個歩兵連隊につき4門程度が配備された。そして後継の94式山砲が制式化されたあとも、太平洋戦争の終結まで第1線部隊で運用され続けた。 砲兵同士の撃ち合い、いわゆる「砲兵戦」は、敵の砲よりも長射程の砲でアウトレンジするか、敵砲兵に狙われないようにこちらの砲の配置場所を隠蔽して砲撃するのがセオリーだが、このクラスの軽砲は、敵に撃たれること覚悟で歩兵と共に最前線へと前進して戦うという運用が普通だ。 その点、41式山砲(歩兵用)は優れており、榴弾を用いた敵陣に対する直射と曲射、榴散弾を用いた敵に対する突撃破砕射撃、成形炸薬弾(せいけいさくやくだん/HEAT弾)を用いた対戦車戦闘にも対応し、採用時期こそ古かったが使い勝手の良さを発揮した。 だが、なんといっても惜しむらくは各種の弾薬の前線への補給が完全に不足していたことで、もし弾薬さえ潤沢に供給されていれば、日本陸軍の砲手たちの勇敢さとも相まって、優秀な「ミニチュア万能砲」である41式山砲が、史実以上に戦果をあげたのは間違いない。
白石 光