マツダの名車を生むテストコースは数々の名勝負を魅せたサーキットだった! 美祢試験場の前身MINEサーキットとは
マツダのテストコースは元サーキット!
ドイツのニュルブルクリンクをはじめ、フェラーリのフィオラノ、ホンダの鷹栖、日産の陸別、トヨタの士別……と、名車が生まれた背景には、それぞれ聖地と呼ばれるテストコースの存在があることが知られている。 【画像】海外からの人気も高い日本のタイムアタックの聖地の画像を見る 「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一として、ギネスブックにも掲載されたロードスターを生産しているマツダの場合、1965年に完成した広島県の「三次自動車試験場」と、山口県美祢市にある「美祢自動車試験場」が有名だ。 このうち、後者の「美祢自動車試験場」は、2006年から運用が始まった新しいテストコースだ。 ただし、新設されたコースではなく、2006年2月まではMINEサーキットの名称で、西日本を代表するサーキットとして親しまれてきたところだった。 MINEサーキットの前身は1972年にオープンした厚保サーキット。全長1300mのコンパクトなコースで、鈴鹿サーキット、船橋サーキット(千葉県・廃業)、富士スピードウェイ、野呂山スピードパーク(広島県・廃業)、筑波サーキット、北海道スピードウェイ(白老町・廃業)、中山サーキット(岡山県)、日本海間瀬サーキット(新潟県)、むつ湾スピードウェイ(青森県・廃業)に次ぐ、日本で10番目に開業したサーキットだ。 ちなみに厚保サーキットは、オープニングレースのみ時計まわりで行われたが、その後は日本では珍しい反時計まわりのサーキットとして各種レースが行われた。 1976年に全長が2815mまで延伸され、名称も「西日本サーキット」に変更。 伝説となった29連勝を誇るR32GT-RのグループAのレースデビューの地は、じつはこの西日本サーキットで、1990年3月のオールジャパンツーリングカー300kmレースでは、カルソニックスカイラインが、ライバル=フォード・シエラ勢を2周遅れにして優勝!
名勝負が数多く生まれた
1991年に再び大きな改修がありコースの全長3330mとなり、MINEサーキットに名称変更。同時に時計まわりに変わっている。 このMINEサーキット、メインストレートは長いが、16のコーナーのほとんどが中低速コーナーで、しかも他所のサーキットに比べて、路面のミューが低いのが特徴。 雨になると展開が読みにくく、F3000やフォーミュラニッポンでは、外国人ドライバーが強味を発揮しやすいコースとしても知られ、フォーミュラニッポン、グループA、JGTC、JTCC、スーパー耐久、JSPCと、レースファンの記憶に残る、いいレースが多かった。 グループAでは、1987年の開幕戦で、三菱のスタリオンが高橋国光・中谷明彦のコンビで優勝したのもこの西日本サーキットだった。 しかし経営母体のしかし、「セントラルパークゴルフ倶楽部」の経営が傾き、玩具メーカーのタカラの子会社であるチョロQモーターズへ経営権が譲渡された。 そして2006年、タカラがトミーと合併するのに合わせ、サーキットを閉鎖する方針が決まり、これをマツダが買収することに。 その後はテストコースとなったため、不定期のイベントなどの機会を除き、マツダ関係者以外は入場できなくなり、レースやスポーツ走行の機会は失われてしまった。 ちなみにテストコースに改修後、ピットやスタンドなどのサーキット的な機能は取り壊されて、車両の急旋回性評価などを行う「スキッドパッド」、高速でのスラロームテストなどを行う「フリーフラットコース」、高速でのワインディング走行などを行う「ワインディングコース」などが新設されている。
藤田竜太