「鼻をつまんで投票する回数」の限界を超えた 有権者人生で初めて国政選挙を「棄権」 北原みのり
「棄権」。改めて凄い言葉である。権利を捨てることでしか、自分の意思を表現できない。 頭のいい人たち、心のある人たちは、「ベターな選択をすればいい」「鼻をつまんで入れればいい」と言う。選挙とはそういうものなのだよ、と。私もそうだと思っていた。そうやってずっと、立憲民主党や共産党に投票してきた。よく知らない候補者であっても、政党で選んで投票するようにしていた。でも急に、ムリムリムリ!と、そういう投票姿勢にアレルギー反応が出てしまったのだった。 2年くらい前から急に牛乳が飲めなくなった。利き酒大会ではなく利きミルク大会があれば出場するのに……と思うほどに、牛乳が好きだったのに。朝1杯、昼間にカフェオレ2杯、夜に1杯、そんな日々を数十年続けたある日、牛乳を飲んだとたんに吐いた。まさか牛乳が原因と思わずにカフェオレを飲んだとたんに吐いた。今は見るだけで吐き気を催すようになってしまった。生涯の牛乳値を超えたのかもしれない。それと同じなのだ。私の場合、生涯で決められている「鼻をつまんで投票する回数」の限界を超えたのだ。 こと、「女としてこの国に生まれた」側からとしては、どこにも私の声などない、という思いが深まってしまったのかもしれない。今回は、女性の当選者が過去最多の73人ということだが、それだってまだまだ少なく、あまりにも遅すぎる歩みだ。女性議員が少ない背景には、自民党だけの原因ではなく、野党も女性議員を積極的に育てず、さらに時代の空気を読むように「若くてキレイでフレッシュな女性候補者」を、オジサン臭を消すための消臭剤のように消費してきたことも原因にあるだろう。 また、「保守」とか「リベラル」という思想も、今や意味をなさない言葉のようにもなってきた。「リベラル」であることは、時に女性の権利運動と真正面からぶつかることもある。たとえば性犯罪の重罰化の音頭を最初に取ったのは14年に法務大臣になった自民党の松島みどりさんだったが、リベラルな民主党政権ではできなかった。また、「表現の自由」を死守するリベラルと、「女性の安全」を訴える女性運動が、性表現を巡ってぶつかるのはよくあることである。時に保守の人とは、女性の安全という面では、根っこの思想は全く違うのに、結果が同じになることは、古今東西フェミニズム運動のアルアルである。