『新宿野戦病院』平等という言葉の虚しさと残酷さ 宮藤官九郎が描く医療従事者たちの執念
よくよく考えてみたら、新型コロナウイルスのパンデミックが始まったばかりの頃のあの騒乱の日々からもう4年半以上も月日が流れたのか。いまもまだなにもかもが完全に元通りになったとは言い難い状況ではあるにしろ、少なくともあの4年半前の“なにもわからない”ことへの恐怖というのはほとんど取り払われたといってもいいだろう。 【写真】スマホに向かって話す凌介(戸塚純貴)とヨウコ(小池栄子) 宮藤官九郎ドラマにおいては、2021年1月期のTBS系列の『俺の家の話』で“アフターコロナ”の世界におけるホームドラマのかたちがまっさきに描かれていた。登場人物たちがごく自然なかたちで外出時にマスクを付けていて、家のなかのシーンでは当然のように外され家族の物語が展開していた。そしてその最終話の際には、1年後の2022年の様子として、誰もマスクを着けていない世界が描かれ、ある種の希望が捧げられていたはずだ。 しかし同じ宮藤作品である『新宿野戦病院』(フジテレビ系)の、9月4日に放送された第10話では、この“アフターコロナ”という世界線においてもういちど、同じような未知の新型ウイルス――ここでは光のような速さで感染し発症するということから“ルミナウイルス”と名付けられている――が日本中を襲う。これによって、まさに2020年初旬ごろの混乱の様子がそっくりそのまま2025年という時代設定のなかでなぞられていくのである。 歌舞伎町でホストとして働く男性が日本人初の感染者になったことから歌舞伎町が槍玉に挙げられ、人が少なくなった街では外国人を敗訴しようとするレイシズムが蔓延。舞(橋本愛)の働くNot Aloneは外国人やホームレスを支援していることから、集中砲火を浴びる。そして抜け穴だらけの補助金制度と“お願いベース”の緊急事態宣言。あの時の騒動を俯瞰して笑い飛ばすというよりも、ウイルスがあろうがなかろうが、どれだけ月日が流れようがなにも変わっていない、変わることのできない世の中を皮肉っているようにも見える。 そうしたなかで勝どきの医療センターで研修医として働きながら、日本人第一号感染者の男性の死に目に立ち会うことになったヨウコ(小池栄子)は、14日間の出勤停止期間中に聖まごころ病院へと戻り、感染者を受け入れるための病床確保を提案する。あっという間に満床になり、対応に追われ、家に帰ることもできない亨(仲野太賀)をはじめとしたまごころの人々。そんななかで感染してしまう啓三(生瀬勝久)。ECMOの確保が追いつかず、受け入れ可能という電話が鳴るのをただ待つだけの日々。いかにも医療ドラマらしいドラマティックを選ばず、ひたすら患者を生かすために奔走する医療従事者たちの執念が、このエピソードにはしっかりと詰め込まれているではないか。 いわずもがな、そのなかで織り交ぜられるカウンターパンチのように強烈な言葉とテーマ性はこれまでのエピソードと変わらずに存在し続ける。父である啓三に自分がウイルスをうつしてしまったかもしれないと悔やみ謝る亨に「いちいち謝るな」と檄を飛ばすヨウコ。パパ活を待つ少女たちが誰もいなくなった路上を見て、自分がこれまでやってきた活動の無力さを痛感する舞。厄災に直面して思い知らされる“平等”という言葉の虚しさと残酷さに、ごくわずかでも啓三が助かる可能性が見えて路上に泣き崩れる亨。誰もいない街のなかに一人残された舞の後ろ姿を映した(キャロル・リードの『第三の男』のラストで墓所を去る時のアリダ・ヴァリの後ろ姿と重なる)ラストショットに至るまで、またもやお見事の一言に尽きる。
久保田和馬