会社員時代に味わった“絶望”から漫画家の道へ 磯谷友紀が自立した女性を描く理由
戦後まもない京都で家業の料亭を継ぐ女料理人の奮闘記『ながたんと青と』、高学歴女子の葛藤を描いた『東大の三姉妹』と、これまで自立した女性を多く描いてきた漫画家の磯谷友紀さん。そもそもは出版社で編集者として働いていたそう。一転、漫画家を目指した理由とは――。
ストレス発散で描いた漫画が
――漫画家になったきっかけは。 磯谷友紀さん(以下、磯谷): もともと漫画が好きで、小学生の頃から描いていました。中学生の時、とある版元で「A賞」という掲載一歩手前の賞をいただいて。親には内緒で投稿していたので、当時は賞金が郵便為替だったため、こっそり受け取ったり、編集担当さんからの電話も23時以降にしてもらったりして大変でした。でも、何度投稿してもやっぱりデビューは高い壁でしたし、漫画家にはなれないのかなと思っていました。それに、高校は進学校に入ってしまったため、漫画どころではなくなって、そのまま東京の大学へ。漫画家がダメなら、編集者になろうと思って、出版社を受けました。 そこでグラビア誌や実用書の編集を担当することになり、とくに漫画には関係ない仕事をしていました。当時、編集部員は今でいうパワハラ的な扱いを男性の上司から受けていました。暴言もありましたし、上司が蹴ったゴミ箱があたったり「お前のハイっていう言い方が気に入らない」と言われたり、毎晩仕事のダメ出しの書かれた長文メールがきたり。今だったら即アウトなんでしょうけど、当時はおじさんたちがオフィスで煙草をスパスパ吸っているような時代でしたから。まだまだ男社会でした。 ――壮絶ですね。メンタルは大丈夫でしたか? 磯谷: やられました。そのストレスを発散する先が漫画の執筆だったんです。そうやって夜な夜な描いた作品が入選したんです。 思い返せば、パワハラ上司に自分の能力を全否定されて、わたし、編集者もダメなんだ……って絶望していたんです。だから、これだけは諦めるわけにはいかないと、必死でした。 デビュー後もこれで食べていけるとは限らないから、会社は辞めないでくださいと担当さんから釘をさされて、平日は働き、土日に書く生活を続けていました。そのころは広告代理店の進行管理の仕事に転職していたのですがブラックな編集部に比べたら天国みたいな職場でした(笑)。月2回の連載が始まった頃にようやく専業になりました。