「アイツ、俺を刺すんじゃ…」石原慎太郎が婚外子の「五男坊」に会いに行った日
石原家と濱渦武生の関係
濱渦氏は'00年に副知事に就任。あまり登庁しない石原に代わり、財政再建をはじめ都政改革の指揮を執り、その豪腕は「陰の知事」とも呼ばれた。だが、副知事就任から5年後の'05年、民主党の都議に「やらせ質問」をさせたとの疑惑に関する問責決議が可決され、副知事を辞することになる。 「旧来の利権構造を維持しようとする都議や職員に忌み嫌われました。実行部隊の濱渦をまず潰そうということだったのでしょう。自民党も石原さんに『濱渦を切れ』と迫った。当時は宏高さんの衆院選という大きな心配事があり、関係を悪化させたくない石原さんはその話を飲んだ。 最後は石原さんに呼ばれましたが、『やめろ』と言い出せない。私が『やめろということですか。私はあなたの指示に従って活動し、瑕疵はありません。だったら罷免してください』と言うと、『俺の沽券にかかわる』と言って、ただボロボロ泣いていました。結局、自ら身を引きましたが、辞表は書いていません。石原さんの要望もあり、参与として関わり続けました。 石原さんといえば、豪放磊落なイメージがありますが、細かいところがあった。'95年に衆議院議員を辞めるとき、宏高さんに『後任をお前やらないか』と打診しましたが、断られた。石原さんはこの一件を根に持ち、のちに宏高さんが衆院選に出馬する際も『息子だろうが、俺の温情を足蹴にするヤツは許せん』と頑なでした。結局、夫人の説得もあり、渋々協力していました。 私は石原さんのことは全力で支援しましたが、石原家のことには関わりを持ちませんでした。ただ、私が見る限り、息子たちは父親の才能をそれぞれ引き継いだ。上から政治は伸晃さん。物書きの才は良純さん。経済は元興銀マンの宏高さん。石原さんは公認会計士になるために一橋大に入りましたからね。そして、絵描きは延啓さんです。石原さんは、もともと画家志望でしたから」
「“五男坊”に一度会いたい」
だが、実は最も政治家に向いていたのは、「良純さんです」と断言する。 「テレビ番組で見せる姿は多才な男という印象ですが、若い頃は度胸もあって表現力も文章力も秀でており、政策も書けた。政策の是非をめぐり、顔を真っ赤にして意見してきましたが、その主張は一理あった。『いまは俺が仕切っているが、次はお前がやれ』と言ったことを覚えています。 一方、伸晃さんは、父親より器用ですが、政治家としての器は別です。私は先代の家老ですから、いまだに石原家のスタッフだった人たちには煙たがられています」 石原が自身と夫人の没後の出版を条件に記した自伝では、数々の女性遍歴や婚外子についても隠さずに綴っている。 「婚外子の存在は夫人も承知していました。友人に誘われて沖縄に行き、一夜だけの出来事のようでした。前夜は友人の相手をした女性です。石原さんは出生に疑念を持ったが、石原プロの小林正彦専務は『親父にそっくり』と話していました。石原さんは弟の裕次郎さん以上に歌が上手い。この才能はこの子に引き継がれました。 知事3期目の後半、石原さんが『アイツに一度会いたい』と言い出したんです。その意向を受け、私はまず弁護士を通じて相手方と交渉しましたが、彼は『お母さんを裏切ったような男には会いたくない』と話したそうです。立派な男だと思いましたね。 結局『会いたくないだろうが、姿を見せるだけならどうか』とお願いして、彼の勤務先を覗きに行くことになりましたが、当の石原さんは土壇場で『アイツ、恨んでいるんじゃないか。俺を刺すんじゃないだろうな』と言い出した。 どうにか説得して、石原さんは『五男坊』の姿を覗きに行きましたが、『いかがでしたか』と聞くと、『うん』と頷くだけで言葉を発しなかった。あのときの表情をいまでも鮮明に覚えています。その後、石原さんは遺書を書いた。『財産についてアイツにも用意した』と言っていました」 「週刊現代」2024年12月28・2025年1月4日号より 【詳しくはこちら】『「田中角栄をやっつけよう」…元東京都副知事・濱渦武生だけが知る「素顔の石原慎太郎」』
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