「出会い」を呼んで道を拓いた高校の教師らの言葉 政策研究大学院大学・大田弘子学長
■自宅近くの図書館で児童文学者の薦めで母子で同じ本を読む 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 小学校から歩いて約10分、県立図書館があったところへも寄った。いまは県立博物館になったが、建物は変わっていない。当時、図書館の館長は童話『月の輪グマ』などを書いた児童文学者の椋鳩十氏。小学校1年生のときに出会った。 椋館長は「母と子の20分間読書」と名付け、親と一緒に同じ本を読むことを薦めた。親が子に何かを教えるためとかではなく、共通の話題を持ち、本を読む習慣をつけることを重視したのだろう。小学校時代半ばまで自宅にテレビはなく、本は想像力を育ててくれた。 『源流Again』のハイライトは、市内にある県立鶴丸高校だ。入学は69年4月で、終戦からまだ四半世紀。先生には「戦争の傷」を持つ人もいて、その深みが、記憶から消えない。そこで次々に出会った言葉は、何物にも代え難い。 ■みんなに大事にされあの言葉の金文字が母校の中庭にあった 「For Others」の言葉を教え、「いつでも他人から頼りにされ、助けることができるように自分を磨いておきなさい」と繰り返した校長。40代後半から政策研究大学院大学の教授職を2度離れ、内閣府の官僚と担当大臣になって国の経済政策の方向を決める経済財政諮問会議(議長・首相)の運営へ参画した。そのとき、会議に諮る案件は「それは社会にとって必要な政策か」の基準で通した。そんなパブリックな姿勢を貫く道は、あの言葉と重なる。
鶴丸高校の中庭に、この言葉を金文字で書いた碑があった。母校では、いまもこの言葉を、教諭や生徒が大事にしている。そう思うと、とてもうれしい。講堂に入ると、あの校長の写真も飾ってあった。 定年退職する化学の先生が最後の授業で言った「教養とは、はにかむことである」も、忘れられない。まだ10代の自分たちに、素晴らしい言葉をくれた。太平洋戦争時に忘れることができない辛い経験をしたためか、いつもうつむき加減にボソボソと話した。このときも小さな声ではあったが、言葉は胸に、まっすぐ飛んできた。30代以降に教養豊かな財界人や学者と論じ合ったとき、驕る思いが湧くことなく過ごせたのは、この言葉の力だったのだろうか。 もう一つが「ワリカシヨクデケマシタ」だ。部活の体操部の練習に明け暮れて勉強時間が乏しかったなか、世界史で100点満点の20点しか取れなかったとき、答案用紙に赤鉛筆で「ヨクデケマシタ」と鹿児島弁で書き込んだ教諭。「面白い先生だな」と思わせて猛勉強を誘い出し、次に満点近い成績を取らせて、今度は「ワリカシ」を付けてきた。 「やればできるよ、まだまだ先はあるよ」との示唆が、含まれていたのか。常に「前へ」と進む道を選んできたのは、桜島の姿がくれた「何とかなる」のおおらかさに「ワリカシ」の示唆が、重なっていた気もする。 部活をした体育館を巡ると、そんな日々が、次々に浮かぶ。 ■計画性もないなか次々に仕事を呼んだ財界人らとの出会い 出会った人たちが道を広げてくれたことは、まだまだある。96年春に埼玉大学大学院の政策科学研究科で助教授となり、1年半後にその研究科が独立して政策研究大学院大学になった。2001年4月に教授へ昇格して1年後、内閣府へ転じて経済財政諮問会議を運営。いったん教授職へ戻った後、さらに06年9月に第1次安倍内閣で諮問会議を受け持つ内閣府特命担当大臣に就任した。