1人の選手で「日本人の評価は激変」 欧州組急増のキッカケ…代表OBが挙げる“革命児”の存在【インタビュー】
日本代表の”新基準”が生んだ「相乗効果」
当時は25~26歳から海外に挑戦するといった事例が多くはなく、日本で立場を確立していれば、そのまま日本でプレーするというキャリアの描き方がスタンダードだった。一方で、現在は海外でプレーし、なおかつ結果を残していることが代表選出の基準となりつつある。そのため、日本でキャリアのピークを迎えている選手たちも、海外挑戦の選択肢を選ぶようになる。 今夏に自身初となる海外挑戦を決断したFW大橋祐紀が良い例と言えるだろう。28歳にして、サンフレッチェ広島からイングランド2部ブラックバーンへの移籍を決断し、即座に結果を残したことで、今年10月に日本代表の初招集が叶った。 「当たり前だが、選手であれば全員、日本代表になりたい。日本で結果を残しているだけでは、代表に定着できない。だから海外に挑戦する。このサイクルは、個人的にはポジティブなサイクルだと思っている。今まで海外に挑戦してきた層が結果を残し、海外でプライスをつけてくれて、新たに有望な選手たちが海を渡ってまた結果を残してくる。日本代表にとって素晴らしい相乗効果となっている」 一方で、ひと昔前の代表メンバーにとって海外移籍は高き壁であったかといわれると、そういうわけではない。あったとすれば、それは実力面ではなく、待遇面の壁だ。欧州市場には、まだ日本人選手を評価する土俵がなかった。 「強調しておきたいのが、当時の代表選手たちが海外で戦えなかったと言うわけでは決してないということ。ここだけは勘違いしてはいけない。海外で通用する選手たちも非常に多かったと思う。当時は、わざわざ海外挑戦の選択肢をとる必要がなかったということ。日本代表の主力としてプレーできている立場で、年収ダウンしてまで海外のオファーを受けるというのは、実際に大きなリスクではあったと思う。欧州で日本人選手の評価が低かったというのがすべてだった」
「真司くんのおかげで、僕はドイツに移籍できた」
では、欧州市場で日本人選手の評価が覆るきっかけはなんだったのだろうか。答えは即答で返ってきた。「間違いなく真司くん。真司くんのおかげで、僕はドイツに移籍できた」。“革命児”に挙げたのは、日本代表で背番号「10」を身につけていたMF香川真司の名だった。 「もちろん、中田英寿さんを筆頭に、先駆者として欧州への道筋を切り開いてくれたレジェンドは数多くいる。その中でも、真司くんの存在は非常に大きかったと思う。日本人のマーケットプライスを高めた立役者なのは間違いない。真司くんがドルトムントで圧倒的な活躍を示したことで、ドイツ国内における日本人の評価は激変した。こうやって誰かが欧州で活躍すれば、日本人全体の評価も高まって、あとに続くことができる」 2010年にボルシア・ドルトムントに移籍した香川は、加入直後からチームの顔となる活躍でリーグ優勝の立役者に。日本からやってきた無名のヒーローに、ドイツ国内だけでなく世界が衝撃を受けた。香川がブンデスリーガにおける日本人選手の価値を飛躍的に高めた影響もあり、翌年の2011年に大津の元にボルシアMGのオファーが届くことになった。 それから十数年の時を経て、欧州全域で日本人選手が活躍する時代へと突入している。「ここ数年間はベルギーで活躍する日本人選手が増えたことで、マーケットがさらに拡大した。プレミアリーグで三笘選手や遠藤選手が活躍することで、イングランド内でさらに日本人がリストに載るようになる」。大津氏は、さらなる日本人選手の躍進を見据えていた。 [プロフィール] 大津祐樹(おおつ・ゆうき)/1990年3月24日生まれ、茨城県出身。180センチ・73キロ。成立学園高―柏―ボルシアMG(ドイツ)―VVVフェンロ(オランダ)―柏―横浜FM―磐田。J1通算192試合13得点、J2通算60試合7得点。日本代表通算2試合0得点。フットサル仕込みのトリッキーな足技や華麗なプレーだけでなく、人間味あふれるキャラで愛されたアタッカー。2012年のロンドン五輪では初戦のスペイン戦で決勝ゴールを挙げるなど、チームのベスト4に大きく貢献した。23年シーズン限りで現役を引退し、大学生のキャリア支援・イベント開催・備品支援・社会人チームとの提携・留学などを行う株式会社「ASSIST」の代表取締役社長を務める。2024年から銀座の時計専門店株式会社コミットの取締役に就任。
城福達也 / Tatsuya Jofuku