別名「戦車道路」 市民が憩う東京の緑道で、過去に何があったのか? グネグネ・ウネウネに“名残り”
緑豊かな散策路は「戦車道路」だった
東京都町田市、神奈川県相模原市との県境に近い多摩丘陵の尾根に、「尾根緑道」と呼ばれる散策路が存在します。市民に親しまれている緑豊かなこの散策路は、地元で「戦車道路」という、どう見ても散策路に似つかわしくない名前で呼ばれています。 実はこの道路、元をただせば日本陸軍の戦車用テストコースだったのです。 【これが「戦車道路」で走らせていたであろう車両たちです(写真)】 話は第2次世界大戦中の1942(昭和17)年末にさかのぼります。この年の7月、日本陸軍はドイツ陸軍の電撃戦に刺激を受けて機甲軍を創設しました。複数の戦車師団を持つこの軍を作るには、戦車生産の拡充が必要不可欠でした。そこで、昭和15(1940)年の軍備拡張計画で、兵器製造所を造兵廠へと昇格させて戦車生産に力を入れることとなりました。 それまで戦車の組み立ては、現在の大田区下丸子にあった三菱重工丸子工場など、民間工場に任されていましたが、上記の計画によって、神奈川県相模原市の相模陸軍造兵廠(現在の在日米軍相模補給廠)でも生産を行うことになりました。相模陸軍造兵廠では当初、部品生産のみを行っていましたが、設備が整うにつれて自力組み立てまでも可能となっていきます。 こうして相模陸軍造兵廠での生産体制は整ったのですが、戦車をはじめとした装軌車両は、普通の自動車と同じように、組み立てを終えた後に性能テスト(試行)を行い検査に合格しなければ完成とはなりません。車両用の性能テスト用地、すなわち「戦車用地」として目を付けられたのが、造兵廠北側の境川と横浜街道を越えた丘陵地帯でした。 ここはいうなれば造兵廠の裏山で、当時は民家も少なく好都合だったようです。1943(昭和18)年、陸軍はこの丘陵の尾根沿いの忠生村から境村小山字田端まで(現・町田市)の約8km区間を買収し、同年暮れに“試行道路”を完成させます。これが、現在に至る「戦車道路」の起こりでした。
「あれは戦車道路」と昔から住民が知っていたワケ
試行道路は道路といっても装軌車両のテスト走行用なので、舗装もなされず、左右に曲がりくねり、また尾根沿いのためアップダウンが多い「悪路」でした。こうした特徴は散策用の緑道となった現在でも見て取ることができます。 町田市史にある「第33回東京都農地委員会議案」の「旧軍用地管理換計画」付図によれば、いまの尾根緑道は予定区間の一部で、現在の町田市小山田の方まで道路が建設される計画だったようです。ただし、この史料は終戦直後のもので、陸軍が本土決戦「決号作戦」で整備しようと計画した作戦用道路と混同している可能性があります。 相模造兵廠で作られた戦車・車両はこの道路でテスト走行が実施されましたが、生産力の低さを反映してか、テストそのものは週に一度くらいしか行われなかったといいます。 また、テストの際には近隣住民に意を促すため事前にビラ配布・掲示などが行われたと伝えられています。このため、近隣住民は陸軍の試行道路の存在を知ることとなり、誰言うとなく、そこを「戦車道路」と呼ぶようになったのです。 戦車道路においてテストが行われたのは主に九七式中戦車チハでしたが、その他の機甲車両の試行も行われたとも伝えられています。おそらく、三式中戦車チヌや一式砲戦車、一式半装軌兵車、一式半装軌貨車などもここでテストが行われた可能性があります。 また、本土決戦に備え相模原造兵廠で試作されていたチト車(四式半装軌兵車を改装、75ミリ砲を搭載した対戦車自走砲)は、完成の暁には間違いなくこの道路でテストが行われたでしょう。