沖縄陥落で延期、玉音放送で予定変更…まさかの展開で「特攻命令」を免れた元学徒兵たちの証言「ハァーって溜息が出るような気持ち」
正直にいって“助かったな”と
玉音放送によって命を救われたケースもある。終戦直前の8月14日に、特攻命令を受けたのは井野隆氏(80)。 「忘れもしませんが、8月14日に、“明日の早朝に出撃しろ”と命令が下りました。いくら覚悟していたとはいえ、血が逆流するような、そんな気持ちでしたね。小学校時代の級友の名前がすべて思い出されたり、信じられない速さで、過去の記憶が次々と蘇ってきて……。その夜は、最後の晩餐に相応しい盛大な宴会が開かれ、特攻隊一同がおおいに飲み、おおいに騒ぎました。 ところが、翌日、天皇陛下のご放送があるということで出撃が延期になって、離陸予定が変更されたのです。正直にいって“助かったな”と思いますよ。ハァーって溜息が出るような気持ちでした」 特攻玉砕も悲劇だが、中には、部下50人に人間魚雷での特攻を命じる立場についていた学徒兵もいた。海軍の奥野博司氏(80)である。 「鹿児島の秘密基地の特攻隊の隊長としての任務についていました。私には50人の部下がいて、彼らに“突っ込めぇー!”と命令する立場にあったんです。ベニヤ板で作ったモーターボートに250キロの爆弾を積んで、敵の輸送船団に体当たりする任務でしたが、50名全員突撃しても、2~3名が命中すれば御の字だという程度の特攻隊です。でも、敵がいなければ出撃も出来ません。結局、そのまま終戦となりました」
10年間のジャングル潜伏を命ぜられた
物資窮乏の折り、78名の部下を率い、2カ月間で砲台を建設した経験を持つのが海軍の砲術学校出身の西圭介氏(82)。 「本来は上海に赴任するはずが、取り消しになって、私の部隊は3年分の食料が浮いていました。その後、九州に着任した時、艦隊司令から“至急、砲台を作れ”と命令されたのです。しかし、工場に普通に頼んでもいつ出来るかわかりませんから、余っていた缶詰やら羊羹を賄賂として配って割りこんだら、すぐに砲が出来あがったんですよ。でも2カ月で終戦でした」 が、全面降伏の終戦によっても、学徒兵たちがすぐに復員し、復学の道を辿ったわけではない。 例えば、先に2度の沈没を経験した渡邊氏は、終戦時は特務機関員。 「終戦の間際は、基礎的な訓練もなしに、国籍、兵籍などを剥奪されて、“抗日ゲリラの連絡網を断つ”という任務についていました。終戦になったら、今度は、スマトラ北部のジャングルに10年間の潜伏を命ぜられた。“日本は必ず再起するから”というのが理由です。結局、帰国できたのは終戦の翌年、昭和21年6月のことでした」