御嶽山麓で味わう“幻の蕎麦”。 長野県木曽郡「時香忘」
闇夜と夜明けを表した独創的な「夜明け蕎麦」
高田氏が辿り着いたのは「限りなく何も足さない、何も引かない蕎麦」。だからこの店には小麦粉が一切ない。所謂ぼそぼそっとした十割蕎麦を想像するが、まず定番だという「極粗挽き寒ざらし熟成蕎麦」をいただ いて驚いた。立ち込める蕎麦本来の香り、しっかりとしたコシがあり噛むほどに野趣あふれる風味、そして滑るような喉越し。未体験の蕎麦に手繰る手がとまらなくなる。 この爽快な喉越しの秘密は、水にあるという。使用するのは木曽の水源水だが、極粗挽き蕎麦の僅かな粘りを100パーセント引き出せるよう低分子構造に変え、浸透率を高くしたもの。そして、自家栽培するある植物 の葉脈を約0。1パーセント混ぜ、湯ごねはせず1時間以上こねた後、熟成にかける。 蕎麦と言えば古くより「挽きたて、打ちたて、茹でたて」の三たてが良しとされているが、高田氏の蕎麦打ちは、その概念を根底から覆す。 「肉もワインも熟成させることで旨味が出ます。それは蕎麦も同じ。なので麺の状態にした後、急速冷凍をかけ、±0°Cで真空氷温熟成をかけています」。 専用の熟成庫で3~4日、旨味とコシを最大限に引き出してから仕立てる。熟成には、蕎麦打ちの水とは別に分子構造を変え、雑菌の活性を抑える抗菌作用のある水を使用するという。 「蕎麦は一粒の実と一滴の水で一本の麺に仕立てるもの。その中の半分近くを占める水を大切にしないと美味しい蕎麦は打てない。蕎麦打ちは綺麗な水があるところですべきなんです」。
挽かずの蕎麦に込めた原点回帰の想い
続いていただいたのは「夜明け蕎麦」。こちらは木曽の夜明けと言われた伊那と木曽を結ぶ権兵衛トンネルの開通を記念して創ったという。 「玄そばの黒い穀は、人の手にかかると捨てられてしまいます。 同じ玄蕎麦として生を受け、中の実を守ってきたのに。それを活かしてあげたくて」微粉末にして蕎麦粉と混ぜ、更科粉で打った白い蕎麦と表裏一体で紡いだ。そのコントラストの美しさもさることながら、田舎蕎麦の荒々しさと洗練された更科蕎麦が同時に味わえる体験は、ここにしかない。 そして、『時香忘』の極北と言えるのが「野点(のだて)蕎麦」だろう。こちらは蕎麦を挽かず、実のまま仕立てた一品だ。 瑞々しい蕎麦には抜き身が散りばめられ、何もつけずにそのままいただくと力強い蕎麦の風味と大地の香りまでが口中に広がり、プチプチという食感も楽しく、実に滑らかな喉越し。喉を通る時、蕎麦の実が感じられ “在りのままの蕎麦” を実感できる仕上がりだ。 「蕎麦の香り、風味を余すことなく表現するには、挽かずにそのまま味わえばいい。その考えを実践しただけです」。 訥々と語る高田氏が打つ蕎麦の根底に流れるのは「原点回帰」 という考えだ。 「蕎麦の原点は粋な江戸前蕎麦ではありません。米も小麦粉も満足に手に入らない中山間地域で、おばあちゃんがあかぎれした手で小さな石臼を使って作った素朴な料理。黒い殻が混じり、土のえぐみもある不揃いの蕎麦です。そんな蕎麦を私なりの解釈で追い求めています」。 その想いを凝縮した蕎麦の味、そして扉が閉まっても頭を深々と下げていた高田氏の佇まいを思い返しながら、板橋を戻る。夜露をまとい始めた森の中で、冷気を感じさせないほどの余韻に浸りながら、幻想的な蕎麦喰い物語は幕を閉じた。 時香忘(じこぼう) 住所/長野県木曽郡木曽町新開芝原8990 TEL/0264-27-6428 営業/11:00~売り切れ次第終了、土・日・祝日 10:30~売り切れ次第終了 休み/〈12~3月〉火・水・木曜 〈4~11月〉火曜 〈8月〉第1・4火曜。 ※ 臨時休業日あり。 写真=久保田敦/文=藤谷良介
buono編集部