芥川賞作家・市川沙央「難病・先天性ミオパチーがなかったら、小説家にはならなかった。滅多にない大金星で帳尻が合って」
重度障害者の生と欲望を描いたデビュー小説『ハンチバック』で芥川賞に輝いた市川沙央さん。主人公と同じ難病をかかえる彼女は、病気がなかったら小説家にだけはならなかったと明かします(イラスト:コーチはじめ) * * * * * * * この数年ほど、私は人探しをしていました。老母の元カレを探していたのです。父と結婚する前に付き合っていた、ほとんどソウルメイトのような恋人を振ったのは母です。私は幼い頃、戸棚にしまわれた缶の中に、結婚後届いた二通の手紙を見つけて読んだことがありました。いえ、こっそり読んだわけではなく母の解説付きで。 この方は母と別れたあと渡米し、とあるジャンルの草分け的な実業家として成功されたそうです。私の知る情報はそれだけ。それと、去年『ニューヨーク・タイムズ』に載ったご本人のインタビュー記事が手がかりとしてあるだけです。 もう何もかも良い思い出になった頃合ですしコンタクトを取ったら面白いだろうと思うのですが、方法がわからない。だから去年の秋頃に思ったんです。もしも私、いま書いている小説でデビューできたら、あの手紙を使って時を超えた壮大な恋愛小説を書こう、と。そしたらモデルにしてよいかどうかの許諾をもらうためコンタクトできる。 よし、そのためにも手元の原稿(『ハンチバック』のことですが)を頑張るぞ、と……非常に馬鹿げた空想をしていたのでした。
私は1979年の9月に生まれました。七つ上の姉がいます。父は脱サラ後に起業した経営者で、母は専業主婦。姉も私も生まれつき筋力が弱く、ひょろひょろとした身体つきで、難病の先天性ミオパチー(ミオチュブラー・ミオパチー)と診断されていました。歩いて話すことのできた頃の姉との記憶は多くありません。 1985年――日航機墜落事故という大惨事の起きた年は、我が家においても重大な転換点でした。この年から始まる姉の苦難のことを抜きにして、私の44年間を語ることはできないと思うのです。 ある日のこと幼稚園から帰ろうとすると父の会社の人の車で伯母が迎えに来ていました。風邪をこじらせていた姉が入院した、と。病院に向かう車の中で姉の心臓は止まっていたそうです。 ちょっと面白い話をしますね。その頃、私の家では庭にプールを造る工事をしていました。病院に担ぎ込まれて姉は一命を取り留めたものの、意識がなかなか戻らなかったため、お宮さんに「視て」もらったところ、ちょうど土地の神の居所がプールの場所と重なっているんだと言うんです。神様が怒ってるんだと。 それで父の友人が、コンクリートを流し込んで固めたばかりのプールの底にドリルでガッガッと穴をあけたら、時同じくして姉の意識が戻りました。私は偶然だと思います。ちなみにプールは念入りに地鎮したのち完成させました。