阪神淡路大震災2日後に開催された全日本大阪大会の舞台裏…どうなる? 5年9カ月ぶりの“大阪三冠戦”【週刊プロレス歴史街道・大阪編】
2024年元日午後4時10分ごろ、能登半島沖を震源とするM7.6、最大震度7の大地震が襲った。石川、富山、新潟3県の日本海沿岸に大きな被害をもたらし、交通が寸断されたため能登半島では孤立した集落も。依然、震度5弱を記録するなど余震が続き、避難所に身を寄せている被災者をはじめ、不安な日々を過ごしている。 【写真】激闘後、リング上と控室の川田利明と小橋建太 さて、大地震とプロレスといえば、思い起こされるのが1995年1月19日、阪神淡路大震災2日後に開催された全日本プロレス大阪大会だ。 その後も新潟県中越地震(2004年10月23日)や東日本大震災(2011年3月11日)、熊本地震(2016年4月14日)などの大地震が発生しているが、被災地に隣接した都府県で発生2日後にビッグマッチが開催された例はほかにない。 今回は阪神淡路大震災2日後に開催された全日本・大阪大会の舞台裏を、同大会のプロモーターの言葉を織り交ぜて紹介する。(週刊プロレスNo.1598/2011年10月12日付掲載記事を加筆・編集)
全日本プロレスの「新春ジャイアント・シリーズ」は慣例としてビッグマッチは開催されず、東京・後楽園ホールを中心に全国をサーキット。1990年以降、同シリーズの大阪大会は、府立体育会館第2競技場で開催されてきた。しかし95年は同会館のメイン競技場を押さえた。 シリーズ唯一のビッグマッチで、当然、それに見合うだけのカードを組まなければならない。そこでプロモーターの伊藤正治氏がジャイアント馬場社長にお願いしたのが、三冠ヘビー級選手権試合だった。 「ダメモトで頼んだところ、馬場さんからは『(興行ギャラは)高いぞ』の言葉が返ってきました。でもOKをいただいて」実現。ちなみに興行ギャラは1000万円(当時)。それに会場費や選手・スタッフの宿泊費がかかる。営業経費も加えればウン千万円にものぼる。 「チケットがお金に替わればいいが、そうじゃなかったらただの紙切れ」。それでもファンのために、三冠戦開催を決定した。 当時、同タイトル戦は日本武道館を中心に組まれており、四天王時代に突入して以降は、首都圏以外では札幌で一度おこなわれたのみ(93年5月21日)。大阪ではインターナショナル、PWF、UNの3冠統一2日後に初代王者ジャンボ鶴田の初防衛戦として行われた89年4・15以来、実に5年9カ月ぶり。大阪のファンからすれば待ちに待った全日本最高峰の闘い。その前人気は、次のエピソードが物語っている。 前年暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」大阪大会(94年11月25日)で、翌年1月の大阪大会で三冠戦開催がアナウンスされた。直後の休憩時間にチケット先行発売を行ったところ、長い列ができた。予想を大きく上回る売れ行きで、用意していた枚数では足りなくなり、近くの事務所まで追加のチケットを取りに走ったほど。しかも金額の高い席種から売れていった。伊藤氏の長い業界歴の中でも実券では最高の売れ行きとなり、先行発売の売り上げで会場費が支払えたほどだった。 シリーズ前に発表されたカードは、川田利明vs小橋健太(当時)。川田にとっては初防衛戦で、小橋が四天王相手に至宝に挑戦するのはこれが初めて。フレッシュな対戦であったことも注目度を高めた。 四天王時代初の“大阪三冠戦”。前売り段階で超満員確実だったが大会2日前、まだ夜が明けきらない早朝、阪神淡路地区を大震災が襲った。