阪神淡路大震災2日後に開催された全日本大阪大会の舞台裏…どうなる? 5年9カ月ぶりの“大阪三冠戦”【週刊プロレス歴史街道・大阪編】
地震発生直後から伊藤氏は全日本に連絡を取ろうとしたものの、電話回線がパンク
阪神高速神戸線が根元から横倒しになり、前輪が高架から飛び出して辛うじて転落を免れている高速バスなど、各局がニュースで伝える映像はショッキングだった。 府立体育会館がある大阪は直撃ではなかったものの、被害状況からとてもプロレスを見に行こうなんて思えるような状況ではない。交通網は寸断され、借りに開催してもどれだけのファンが会場に来られるかわからない。 地震発生直後から伊藤氏は全日本に連絡を取ろうとしたものの、電話回線がパンクしていてつながらない状態。夕方になってようやく大峡正男取締役(当時)とつながり、「体育館の状況はどうか? (大会が)できるかできないかを確認してほしい」との連絡を受けた。 体育館に問い合わせたところ、一部の設備は使用できないものの開催可能との返事。それを報告したところ馬場社長“御大の一声”で開催を強行することとなった。 「中止になったら、チケットの払い戻しだけで数千万。すでに支払いに充てているので、手元にそんなに残ってない。開催してくれるとなって助かったが、お客さんが来てくれるか心配でしたし、チケットは買ったものの会場に来られないファンへの対応をどうするかなど、いろいろ大変でした」 結局、来場できなかったファンには、未使用のチケットの引き換えに当日に試合を収録したビデオを送ることにした。それでも「試合中に大きな余震が発生したらどうするかとか、お客さんの安全をどうやって確保するかなど、あの時は大会が終了するまで寝られなかったですね」と振り返った。(つづく) <プロフィル> 伊藤正治(いとうまさじ) 1951年12月10日生まれ、宮城県栗原市出身。旗揚げ戦前の新日本プロレスに入門。浜田広秋(グラン浜田)、関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が先輩で、すぐ下の後輩が藤原喜明、小林邦昭。バトルロイヤルでプレデビューするも、ヒジの負傷で正式デビューを待たずしてプロレスラーを断念、営業に転向する。当時から大阪を担当。営業部を独立させる形で大塚直樹氏が新日本プロレス興業を設立。その後、ジャパン・プロレスが旗揚げされると、その流れから全日本プロレスの興行を手掛け、長州力vs天龍源一郎シングル初対決や長州vsジャンボ鶴田の大阪城ホール大会などを担当。Uターンでジャパン・プロレスが分裂すると、永源遙の勧めで独立、武藤敬司社長時代まで全日本の大阪大会のプロモーターを務める。その後、新日本「FANTASTICA MANIA」大阪大会をプロモートするも、コロナ禍で中断されたことと70歳を迎えたことで勇退した。
週刊プロレス編集部