『中西太、優しき怪童 西鉄ライオンズ最強打者の真実』/04早稲田入学の夢が消え、西鉄入団
2つの運命の出会い
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。 【選手データ】中西太 プロフィール・通算成績 書籍化の際の新たなる取材者は吉田義男さん、米田哲也さん、権藤博さん、王貞治さん、辻恭彦さん、若松勉さん、真弓明信さん、新井宏昌さん、香坂英典さん、栗山英樹さん、大久保博元さん、田口壮さん、岩村明憲さんです。 今回は西鉄入団前の1951年の話を抜粋します(何ヵ所か略しています)。03と話が前後しますが、ご容赦ください。 中西は言う。 「三原(三原脩)さんは九州に来られたばかりで組織もない、選手もいないというところから世代交代を進め、育てながら勝つという難しいことを考えられていたんだと思う」 新人選手補強でも陣頭に立ち、真っ先に目を向けたのが、怪童として名をとどろかせていた中西だった。 知り合いの高松一高の後援会長から中西が早大進学を希望しているが、学費の問題があることを聞き、西鉄本社に掛け合って学費を援助することにした。もちろん、早大卒業後、西鉄へという思惑からだ。 国体のあと、三原監督は、中西を秋季リーグの早慶戦観戦のため東京に誘い、早大野球部関係者に紹介するとともに、銀座に食事に連れて行くなどしている。 「成城の自宅にも招いてもらったんだけれど、もう映画のなかのような家庭で驚いた。庭にレンガでできたコンロがあってバーベキューができる。当時の三原邸には四男一女がいたが、それぞれの席に皿が置かれていて、メインディッシュを切り分けたりしてね。四国の田舎のあんちゃんはびっくりしたものよ」 その一女がのちの夫人、17歳の敏子さんだ。2つめの運命の出会いである。 中西は東京から高松に帰るのではなく、そのまま鳥取県米子での招待試合に向かうことになっていた。すでに下級生の新チームはスタートしていたが、「評判の怪童を見たい」という先方の希望に応えてだった。 このとき三原監督は「私も行こう」と言った。 「一緒の夜行列車に乗ったんや。ずっと2人だけ。雲の上の人だからね。恐れ多くて、まともに顔も見られなかった。何をしゃべったかなんてまったく覚えてない。緊張と椅子が硬かったんで、寝られんかったことをよう覚えとるよ」 鳥取では移動の疲れも見せず、4打数4安打、うち2本塁打と打ちまくった。 このあと急展開があった。中西は蚊帳の外だったが、毎日の関係者が中西獲得のため高松入りし、実兄と契約手前まできているという話が三原の耳に届いた。三原は急きょ高松に行き、母親に会うと「毎日ではなく、西鉄に来てもらえないだろうか」と直接交渉。 小浪さんはなんとか中西の夢をかなえ、進学させてやりたいと思っていたが、そもそも援助なしで進学させる経済的余裕はない。「太、勘弁してくれ」と涙ながらに言い、西鉄の契約書にサインをした。 母の涙を見て、中西も泣いた。 早稲田進学の夢が消えたというだけではない。貧しさのなか、自分たちのために必死に汗を流して働いてきた母が泣いている姿を見て無性に切なくなった。 同時に恐怖心が奥底から湧き上がってきた。結果を出せなかったらどうなるのだろう。プロの試合を見たこともなく、ラジオで聴く音だけの世界だった。当時はまだ、高卒でプロ入りする選手が少なく、自分の未来がまったく想像できなかった。 怪童と言われ、体は人並外れて強くなったが、まだ18歳。未知の世界が怖くてたまらなかった。
週刊ベースボール