村の男たちはくわで家族を手にかけた―。91歳女性が証言する、沖縄戦の集団自決 「息絶えた母の横で、死んだふりをして生き延びた」逃げ場のない島で起きた地獄絵図
大城さんと喜久村さんは終戦後、はぐれていた祖父や防衛隊から戻ってきた父と再会できた。しかし、父は12月30日に爆薬を使った漁の事故で亡くなった。 それからは大城さんが祖父の畑作業を手伝いながら、母の代わりにきょうだいの面倒を見てきた。中学に進学したい気持ちもあったという大城さん。「親のいる他の家がうらやましかった。お金もなく貧しい生活だった。子どもだけ残した親を何度も恨んだ」 きょうだいら全員を中学まで卒業させた後、24歳で結婚し沖縄本島の糸満市に移住した。1972年の日本復帰まで那覇市の米軍基地で洗濯などをして働いてきた。子どもや孫、ひ孫にも恵まれた。喜久村さんも仕事を機に本島に移った。「自分を犠牲にして育ててくれたおねえには頭が上がらない」との思いから、現在は週に2回ほど糸満市の大城さんの自宅に土産を持って訪ねているという。「妹たちを守ると必死で、なんとか生きてきたね」大城さんはそう語り、自宅を訪れた喜久村さんの背を優しくさすった。 ▽79年たってもよみがえる記憶
大城さんは毎年3月が近づくと、嫌でも自決の記憶がよみがえり、体調が悪くなったり、眠れなくなったりする。「皆、犬死にだった」。自決を促した日本軍への怒りが今もこみ上げてくるという。「日本軍は捕虜になれば拷問されると住民を脅し、たくさんの命を奪った。絶対に許せない」。村などによると、島の人口は1940年の統計で約1370人。当時集団自決したとされる住民は約330人に上った。 ▽孫の決意とおばあの願い 母や妹を失った日から79年の今年3月28日、大城さんは渡嘉敷島で営まれた慰霊祭に、沖縄戦に関心を持つ孫娘の侑生さん(12)に腕を支えられながら参列した。碑に刻まれた母たちの名前を指でなぞり、涙を流した。 侑生さんは当時の自分とほぼ同い年の12歳だ。大城さんは語気を強めた。「かわいい子や孫を手にかけることが平気な親はいなかったと思う。それでも正しい判断ができなくなるのが戦争だ」 侑生さんは言う。「沖縄戦がおばあの心に一生消えない傷をつけた。私は戦争を知らない世代だけど、おばあの涙と平和の大切さを忘れない」。その手をなでた大城さんはこう願う。「この子たちに、あんな悲惨な経験をさせたくない」