村の男たちはくわで家族を手にかけた―。91歳女性が証言する、沖縄戦の集団自決 「息絶えた母の横で、死んだふりをして生き延びた」逃げ場のない島で起きた地獄絵図
火薬を飲んでも死ねなかった男たちは短剣やくわで家族らを手にかけ始めた。あちこちで悲鳴が飛び交った。「姉ちゃん怖い」と弟は泣き、大城さんの足にしがみついた。親戚のおじさんは木を折った棒を手にし、母を殴った。母は何度か殴られて息絶えた。大城さんも首を殴られて倒れたが、気を失ったふりをした。その時、祖母が頭を優しくなで、着物をかぶせてくれた。「おばあは私が死んだと思ったのだと思う」 ▽「血の水を飲ませたから・・・」 逃避行を共にしていた大城さんの妹、喜久村清子さん(86)は当時6歳。惨劇に巻き込まれまいと、その場から転げるようにして逃げた。すぐ近くに、阿波連集落に住む顔なじみの女性がいた。その女性は日本兵に腹を切られ、腸が飛び出ていた。両手で傷口をふさぐ女性の夫から「手が離せないから、きよちゃん、水をくんできて」と頼まれた。 広場のすぐ下を流れていた小川の水は自決した人たちの血で赤く染まっていた。血混じりの水を空き缶にくみ、女性の元に戻った。「血が混じっているけど大丈夫かな」。女性の夫に伝えると、「ありがとう。飲ませてあげて」と言われた。手を震わせながら缶を口に運んだものの、女性は一口飲んであえなく息を引き取った。喜久村さんは死ぬのが怖くなって山を下り、海岸で米兵に捕まった。
喜久村さんは当時を振り返り「血の水を飲ませたから死んでしまったと思い、戦後も20年以上にわたり自分を責め続けた。つらい記憶がよみがえるから、今も腸を使う料理が食べられない」と話す。 ▽米軍に救助されて見た光景 棒で殴られ瀕死の状態だった大城さんは後に米軍に救助された。先に山を下り捕まっていた別の妹が「おねえは生きているから助けて」とヤマシタさんという名の通訳役の米兵を連れて戻ってきた。 大城さんはヤマシタさんの手を借りて起き上がった。着ていた服は血まみれ。辺りには無数の遺体が転がっていた。木に首をつっている人もいた。母の胸の上には息絶えた生後6カ月ほどの妹が横たわっていた。 その後、生き延びた喜久村さんらきょうだいと共に渡嘉敷島の北西にある座間味島の米軍のキャンプに収容されて治療を受けた。首を殴られたためか喉が腫れ、水を飲むと鼻から出てしまい、食事も取ることができなかった。 ▽終戦後は母親代わりに