「相場は神聖なもの」だれもが知識を得て、大いにやるべき 田附政次郎(上)
波乱相場は一人舞台 田附将軍は「油断のならぬ男」
岩田が本願寺の檀徒総代を務めていたから「岩田本願寺」と呼ばれるのに対し、田附は「田附将軍」と呼ばれた。鼻に特徴があったので「鼻将軍」との異称もあった。 田附の少年時代について大阪商人史に精しい宮本又次が書いている 「はじめは飯たきの手伝い、荷車を引いて外回りをさせられた。夜は11時ころまで仕事をするが、朝は8時ごろやっと目をさますといったぐあいで、のんびり奉公したらしい。当時は“本町筋の朝寝”という言葉があったほどで朝が遅いのはそのころの綿糸、綿布問屋街の慣習だったらしい。政次郎は16歳のとき、紅忠をやめて、いったん郷里へ引き揚げた。家業の呉服太物行商を手伝うためだった」(『大阪商人太平記』明治後期編下) 近江商人の呉服の行商(持ち下り)は江戸時代から盛んで、太物を背負って全国各地を売り歩いた。22歳のとき、再び大阪にやってきて義兄の呉服商を手伝う。1893(明治26)年新しい取引所法が制定され、綿糸、綿布、綿花を上場する大阪三品取引所が誕生すると同時に同取引所の仲買人となる。 折から日清戦争の軍需景気で三品市場も北浜や堂島に負けぬにぎわいをみせた。買い占めや思惑買いが活発に行われていた。 「政次郎は元気いっぱい、三品の仲買人として定期(先物)取引に全力を傾けた。彼の性格にとって、こうした波乱相場はまさに一人舞台というべき感じで、自在にふるまった。前日の売り方が当日は買い方に回り、今日は強気の旗頭が明日は弱気の陣営でがんばるといった、いわゆる“ドテン”が常道だった。政次郎は全くもって神出鬼没、だれにも予断を許さなかった。口では弱気を吐きながら、ハラの中では強気だったりして、世間からは『田附は油断のならぬ男』といわれた」(同)
「相場は神聖である」相場至上主義を唱える
一般に相場師と呼ばれるのを嫌う風潮があり、「わしは相場師などではない。実業家だ」などと、実業家を名乗る人が多い中で、田附は「相場は神聖である」と相場至上主義を唱え、みずから「投機の権化」を自認した。そしてこう述べる。 「相場は何びとにも必要だ。だからだれもやらねばならぬ。いやしくも今日の経済組織下に生活を営む以上、だれもが必ず知っておかねばならず、張っておかねばならぬのが相場だ。だから大臣諸公より、軍人であれ、教育家であれ、宗教家であれ、相場をやって当然である。特に実業に従事する者は1日もおろそかにしてはならぬ」 田附はだれに遠慮することもなく、投機を礼讃する。田附節は最高潮に達する。 「そもそも投機は最も神聖な精神的行為であって、宇宙間の自然より感応する場合と、事物に当たって理解的に判断する場合の2つあるが、詮すればいずれも感応的で一種の神秘作用に外ならぬ」 田附は日蓮がほえる念仏よりもみずからの投機至上主義が尊いといい、新島譲の教えよりも投機思想啓蒙が意義深く、軍神広瀬武夫の戦死よりも自身の「逆ザヤ乗り替え」が勇気のいる仕事だと自画自賛する。人々は田附の怪気炎に圧倒されてしまう。ここまで徹底すると反論も出なくなる。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■田附政次郎(1860-1933)の横顔■ 文久3年近江国能登川(現滋賀県東近江市)出身、明治9年、13歳で大阪に出て、おじ伊藤忠兵衛が創業した「紅忠」(伊藤忠商事や丸紅の前身)に奉公する。24歳で独立、田附商店を開業、同26年大阪三品取引所の創立と同時に仲買人となる。田附は自分の建玉と店の建玉とは峻別した。大正9年の綿糸相場の歴史的暴落で売り作戦で巨利をつかむ。京大医学部に50万円寄付、北野病院ができる。昭和8年没。