「異端の学者」「学会では低評価」 戦後の歴史学を一変させた網野善彦とはどんな人物だったのか?(レビュー)
網野さんの一般向け著作は無数にあるが、なかでも『歴史を考えるヒント』は、そんな網野さんの伝統的で正統派の一面を、もっとも良くうかがい知ることのできる著作だろう。本書は歴史のなかの“ことば”を主題にした一般向け連続講座の内容をもとに編まれたものだが、一読すれば、読者は「日本」や「百姓」という“ことば”の不用意な使用が、いかに私たちの思考を縛っているかという、いつもの網野節に心惹かれるに違いない。ただ、そうした主題の影で、網野さんは「切符」の「切」は何を意味するか、「株式会社」の「式」とは何か、「九州」という地域名が出てくる文書に偽文書が多い、ということに意外なほど立ち入って解説している。私などは、こうした些末なくだりに「網野史学」の真骨頂を感じとってしまうのだ。 網野さんは民俗学や考古学の成果や手法を歴史研究に積極的に取り入れて、日本史像を豊かにした学者として知られるが、実はその本領は古文書研究にある。彼が、東大古文書学の泰斗、佐藤進一の学風を受け継ぐ研究者であることは意外に一般には知られていない。古文書のなかの一字一句の解釈を疎かにしない、その厳格な学風は網野さんにも正しく継承されており、本書のなかでも“ことば”の大事さは次のように強調されている。「それが使われていたときの言葉の意味を正確にとらえながら中世の文書を読み解いていくと、予期しない世界が開けてくることがあるわけで、そこに「歴史」という学問の面白味があるとも言えると思います」(一七七~一七八頁)。 「関東」「関西」「中国」「四国」など現在当たり前に使われている地域呼称も、その発生を辿ってゆくと、それぞれの地域が歩んだ列島内部の多様な個性が明らかとなる。「日本」という国号はいつ生まれたのか? 「百姓」は農民なのか? という網野さんのお決まりの主張も、そうした“ことば”に対する鋭敏な感性や幾多の古文書を熟覧した経験から生み出されたものなのである。そのことは同時代を生きた歴史学者なら誰もが知るところで、だからこそ、多くの歴史学者は今も網野さんに敬意を表し、生前からその言動に一目も二目も置いていたのだ。 没後二十年、この機会に網野さんの著作に初めて触れてみたいと思っている人にも、これまでいくつかの本を読んで、網野さんを“異端の歴史家”だと思い込んでいた人にも、本書を読めば、その独創性を支えた頑強で筋の通った屋台骨の一端を知ることができるに違いない。 [レビュアー]清水克行(日本史学者・明治大教授) 1971年、東京生まれ。明治大学商学部教授。専門は日本中世史。歴史番組の解説や時代考証なども務める。著書に『室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界―』『喧嘩両成敗の誕生』『日本神判史』『戦国大名と分国法』『耳鼻削ぎの日本史』や、高野秀行との対談本『世界の辺境とハードボイルド室町時代』などがある。最新刊『室町ワンダーランド あなたの知らない「もうひとつの日本」』(文藝春秋)は5月27日刊行。 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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