戦場カメラマン・渡部陽一が「日本はもはや特別ではない」と悟った瞬間
世界各地で繰り返されている戦争。攻撃のあった街や、被害にあった人々の映像や写真をニュースやSNSで見ることが多くなっています。 「戦争」というとどこか自分からは遠いところにあるように思われるかもしれません。 しかし、戦場カメラマンの渡部陽一さんは、日本にも「戦争」という日常があると語ります。 ※本稿は、渡部陽一著『晴れ、そしてミサイル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。
戦争は貧困と孤独から始まる
紛争地を回ってきた僕が感じる、戦争やテロの根っこにあるものは「貧困」です。 日々、安定して家族が暮らせる環境があれば、戦うという手段を選ぶ必要はありません。しかし、その暮らしが脅かされていく。貧困によって、やりたいことができなくなる。そのうちに「明日を生きることができるのか」と不安に襲われる。 すべてが奪われ、壊されて、食べるものがなくなるかもしれない。そして、家族や子どもたちの命が危機にさらされていく。 こうして「生きるためには武器を取らざるを得ない」という極限の状態につながっていく。貧困の「選ぶことができない」不自由が、人を追いつめ、テロ行為や戦争へと駆り立てていくのです。 追い詰められた人たちは、この貧困を招いた犯人は誰かと探しはじめます。さまざまな要因が絡まっているはずです。自然環境の問題。飢餓の問題。不公平なビジネス取引の問題。差別や格差の問題。その犯人をたどっていった先に血の報復が起きる。そして繰り返されていく。 貧困をきっかけに起こる報復合戦の歴史が、今のウクライナ戦争にもつながっています。 そして貧困は、子どもたちから教育の機会を奪います。武力による戦い以外でも暮らしを整えていくことはできるはずなのに、その手段すら知ることができない。テロや戦争といった悲しい事件の根っこには、必ず「貧困」というスイッチがあるのです。 あまりにも過酷で貧しい暮らしに向き合うと、ふつう、人は一人で生きていくことはできません。 僕が世界各国を回って気づくのは、地域の人たちが連帯しながら一日一日を暮らしていくのが、多くの国にとっての日常であるということ。そうした地域での連帯を支えているのが宗教です。宗教の考え方を入り口にして、共生のあり方や貧しい中でも生きていくための気持ちや体を整えていく。 一方、宗教観が土台にある国の場合、その教えが徐々に尖り、「ルールから逸脱することは許さない」となっていくと、宗教から暴力が生まれることがあります。それが世界の過激派やテロ組織誕生へとつながっていくこともある。 厳格なイスラム教徒の中から、一切の世俗的な価値観を認めない急進的なイスラム主義者が生まれ、その人々が過激派となって武装し、テロや暴力行為を行うようになったのもその一例です。 もちろんそれは一部であり、人と人とが共に暮らし、愛情をもって寄り添い、寛容の心を持って生きていこうという思想があらゆる宗教の根幹にあります。 日本に住んでいると、そうした宗教観を土台にした連帯する暮らしや、そこから生まれる過激派の脅威はさほど身近に感じられないかもしれません。一方で、地域や宗教観による連帯を前提としない現代の日本ではどうしても、貧困に陥った人たちが孤立してしまう傾向があります。 貧しく、家族もいない。ひとりぼっち。部屋から出てこられない。仕事をなかなか手にすることができず、日雇いの仕事をして、ネットカフェに泊まることができたらラッキー。公園で夜を明かすこともある。 そういう見えない貧困、社会の不平等が、悲しい事件の引き金になりかねない。安倍元首相の事件を見て、僕は「日本はもう特別な国ではなくなった。世界各国と同じような苦しみや不安の入り口に立ったのだ」と感じました。